3月17日(日)、なにわ淀川ハーフマラソンに参加してきた。何か目標が無いとダラけてしまうので、マラソンは卒業したと言いながらエントリーしたけど、やはり練習には身が入らず(笑)、10km前後の距離を6分ちょっと/kmぐらいのゆっくりとしたペースでしか走っていなかった。
ハーフマラソンと言うと自分の中では2時間を切るか切らないかが大きな壁で、もちろん今回も2時間切りを目標にしていた。だけど21kmを2時間以内で走るとなると、1kmあたり6分以内で走り続けないといけないわけで、そんなスピードで練習していないから、今回はちょっと無理かな~なんて思ってた。だからもう今回の作戦は、お得意の「イケるとこまでイク」作戦。周りのペースと雰囲気に引っ張られながら根性でついていくという、いかにもアホっぽい作戦である。
コースは全て淀川北岸の平坦路を往復。普段南岸で練習している者としては完全アウェーである。しかも一度下見に行ったときに懸念していた“砂利道”が時折現れる。何を隠そうワタクシ、路面の変化にはめっぽう弱く、アスファルトならアスファルト、平坦なら平坦続きでないとガックシペースが落ちてしまうという特徴を持っているので、ペースの一件と合わせてそちらも不安材料。まあともかくやるしか無い。
スタートは特に大きな混乱や渋滞もなく、すぐに自分のペースで走り始めることができた。周囲は自分の中ではちょっと速いかな~ぐらいのペースで進む。最初の1kmは5分47秒。次の2kmでは10分42秒。3kmで16分00秒。周りに引っ張られるお陰で順調に2時間切りに向けて貯金を稼いでいる。いつまでもつかわからないけど、とにかくこのペースでイケるとこまでイッておいて、元気なうちに貯金を貯めよう。
自分のペースに合う人を見つける。Tシャツの背中に、「苦しくても 前を向き 止まらずに 凛と走れ」(だったと思う)と書いてある人を目標にした。この人のお陰で走り続けられたようなもん。ありがとうございました。抜きつ抜かれつのデッドヒート(?)を繰り返しながら距離を稼ぐ。
15km地点までは必死でついて行っていたけど、あと5kmぐらいのところから懸念していた砂利道コースが始まった。舞い上がる砂埃、油断すると捻挫するかもしれないぐらいの大きな石ころ。蹴った足が滑るほどの深い砂地もあって、ここからペースがガタ落ち。目標の人にも置いていかれた。序盤の貯金をチビチビと使いながら、なんとか6分/km前後を維持し続ける。
残り3kmではもう脚も痛いしアカンかな~と諦めかけるも、とても美人な女性を見つけてちょっと復活。美ジョガーの尻を追いかけながら頑張った。ゴール手前50mでは、隣にいた私と同じくヘロヘロの背の高いニーチャンがスパートをかけたので、こちらもやり返す。ゴールスプリントには自信があります。ゴール手前2mで抜き返してゴール(笑)!1時間55分でした。よかった~、2時間切りできた~。
正直あんまりランニングのことは好きにはなれないけども、ハーフマラソンぐらいならこれからも続けてもいいかなと思う。2時間切るぐらいの脚はやっぱり維持し続けたいし、何よりもああいう非日常な大会の雰囲気には、定期的に浸っていたいと思う。独りで走っていては絶対に発揮されない、自分の中にある隠されたチカラってのを、まさに自分の身を持って知ることができるのは貴重な体験だと思う。
十分な練習もしていないというのに、今回辛うじてではあったけど一応2時間切りできたことは、ランナーとしての実力は上がってきているのかなとも思う。あくまで私はサイクリストだけど、自分の記録に対して一喜一憂するのはどのスポーツでも同じ事だし、スポーツしない人からみればそんな“しょーもないこと”にでも喜んだり憂いたりすることのできるのは幸せなことだと思う。
スタート前に話しかけて来てくれたベテランランナーさん、途中まで引っ張ってくれたTシャツの方はじめ周囲の方々、その他大勢の大会関係者さん、ボランティアさん、どうもありがとうございました。
自転車通勤再開
まだハーフマラソンも終わってないので自転車に乗っている場合ではないのだが、急に気温が穏やかになって、冬眠から目覚めたローディーがウヨウヨと通勤路に現れたところを見ると、いてもたってもいられなくなった。
とはいえ1ヶ月以上ぶりの自転車通勤である。10km未満のサイクリングロードならともかく、26km山越え通勤ともなると、もう前夜から緊張しまくり(笑)。鞄に入れる物、着ていく物、タイヤやらパーツやら工具やら、気が付けば荷物だけで10kg近くになってしまった。
しかしまあさすがに春である。阪奈頂上でも気温7℃。これぐらい暖かくなると、もう寒いという感覚は無い。いよいよローディーの季節がやって来た。事故に気を付けてボチボチと乗っていきたい。
早起き失敗中・・・
ここ3日ほど早起き失敗続きで朝ランお休み。せめて夜ランでもと意気込むが、あれやこれやと言い訳しつつ結局走らず。この冬の運動量はここ数年で最低ではなかろうか。おそらく自転車の距離だけなら毎日子供の送り迎えをしているヨメにも負けているだろう。
通勤に快適なクルマなんかがあるから悪いのだ。いっその事クルマなんて売っぱらってしまおうか。必要なときだけレンタルしたらええやんかと、クルマ屋さん失格な発言をしてみる。いやしかし、昨今のガソリン代の上昇具合を見るに、あながち無いハナシでもない。ガソリンを入れるたびに、機械に吸い込まれてゆく一葉と漱石(時には諭吉)を見ていると不憫でならない。ポケットの中で温々と過ごしていたお札たちは、僕の不甲斐なさのせいで冷たい機械の中へと重ねられてゆくのだ。
今自分が“本当に”欲しいものはなんだろうか。クルマやバイクや自転車、腕時計や靴や洋服などの、お金で買えるモノに対しての物欲は近年、減少傾向にある。その代わりに、健康とか、安心とか、チームTTで優勝できる脚力とか、まあそういうお金ではどうしようもないものが欲しくなってきたように思う。
で、そういうものは、お金で買えない代わりに自分でどうにかなるものばかりだったりする。言い換えればお金は必要ない、つまり“安い”わけである。そんな超安価なものをいつまでも「欲しい欲しい」と言い続け、「ああ今日もお金を遣ってしまった」と後悔する、非常に矛盾なサイクルに、他ならぬ自分がハマってしまっていることに、今更ながら驚く。
「なんでこんな簡単なことなのに」
「いやいや言うても眠たいし」
「そうやってまた後悔するのか」
「みんなおんなじ後悔してるし」
自分との闘いとはよく言ったもんである。最近こんな闘いが自分の中で頻繁に起こる。正直こんな闘いは不毛である。いい加減やめたい。
ヒンズー教の教えに、『心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、運命が変わる。運命が変われば、人生が変わる』とある。
行動を変えるところまでは誰でもすぐに達成する。新しいランニングシューズやウェアを買えばよい。ここまではお金でなんとかなったりする。しかしそれを習慣にするのが難しい。そこで自分との闘いが勃発するわけだが、その闘いに勝利し続けることが当たり前にならなければならない。ここが難しい。自分と闘っているようではまだダメなんだな。
ドッジボール大会
5時に起床して12kmほどランニングしてから、子供をドッジボール大会へ引率。場所は舞洲アリーナ。大阪の幼稚園保育園児のドッジボールチームが戦う、なかなか大規模な大会であった。
うちの幼稚園にも一応ドッジボールクラブがあるにはあるが、所詮遊び程度のクラブなので、ボールを受けたり投げたりするのが苦手な子もチーム内に入っているが、よその地域には何度も優勝争いに絡む本気のチームがあって、そんなチームの戦いっぷりを見てるとおそらく小学生でも勝てないのではと思うぐらいにハイレベルである。
当然そんなチームに勝てるわけもなく、我が子のチームは早々に敗退しておったが、閉会式まで帰れないので(涙)、異常なまでの盛り上がりを見せる強豪チームの保護者応援団の中に混じって観戦。強いチームは親の気合の入りようからして違う。揃いのTシャツを来たり、ポンポンや鳴り物で応援したりしている。中には敵チームや審判に対して目に余る野次を飛ばすクソ親もいたが、まあそんなヤツはどこにでもいるもんである。
投げるボールの速さ、コントロール、キャッチの技術、キャッチしてから投げるまでの速さ、パス回し、逃げ方など、もうどれを取っても素晴らしい、同年代の子供とは思えない試合内容である。特に目に付いたのは、強いチームは同じチーム内でボールの取り合いをしてる子がいない。一応公式ルールに則った試合なので、ボールを触ってから5秒以内に投げなければいけない。そうやってチーム内でイザコザしているうちに、相手にボール権が渡ってしまうこともあるので、我先に!という気持ちが強い子供たちをあそこまで指導した監督やコーチはすごいと思う。
そんなわけで決勝では白熱の試合。負けた子供たちが悔しくて泣いているのを見て、全く他人の子供たちなのにも関わらず、コッチまで目頭が熱くなってしまった。
『火車』 宮部みゆき 新潮社
再読。実は従妹に借りて読んだことがあったのに記憶から消え去り、古本屋でついつい手に取ってしまった。読み進めているうちに、「あれ?読んだことある?」となった次第である。初めてこの作品を読んだときは、何が面白いのか理解できなかったけど、今回良くも悪くも再読したことによってその良さがわかった。それだけでも再読の意味があったと思う。
カード破産や、戸籍乗っ取りに関しての記述がかなり詳細で、ちょっとくどい部分もあるにはあるが、クレジット時代に一石を投じる作品だったのだなと思う。しかしそれは重箱の隅をつつくようなことで、本当の面白さは、「犯人が最後まで登場しない」ことだった。
行方をくらませながら逃げ続ける犯人を、追いかける者の目線で書くことにより、犯人像を読者に想像させ、足取りや動機を描いていく。それがとても丁寧で緻密で、読者のほうも「早く犯人に会いたい!」となる。
したがって、初読のときは「なんじゃい!これで終わりかい!」と思ったラストシーンも、再読であった今回は許容することができた。むしろ、このあとに犯人のセリフや描写のシーンがあったとしても、これまで追ってきた刑事の経緯を再び書き連ねるだけにもなりかねない。そんな野暮ったいことをするぐらいなら、スパっと終わったほうが良いのだろう。
宮部みゆき作品は、恥ずかしながらまだ『火車』しか読んだことがないので、ほかの作品ではどんな感じなのか知る由もないけど、文章が女性らしくてとても丁寧だなと感じた。わかりやすいぐらいの伏線がきちんと等間隔に散りばめられ、盛り上がりとクールダウンも等間隔。そしてラストは潔く勇気ある終わり方。いかにも女性らしいと思う。他の作品も読んでみたいと思った。
余談だが、物語の中に大阪球場が登場する。なんばにあった野球場で、取り壊される前は住宅展示場となった。昔、阪神高速環状線を頻繁に走行してたことがあって、そこからいつも見えていた。懐かしい気分になって嬉しかった。
いろいろ考える
朝からスパムの大掃除で大変(笑)。このブログは(よ)さんとこのサーバーを使わせてもらってるのだが、ワタクシ、サーバーの運用とかその辺のことは全くわからないので、もしかしたらこのブログを更新してスパムが大量に付くという状態は、サーバーにとって負担になるのでは?と気にし始めた今日この頃(遅い)。まあ「わからんことには手を出すな」の精神でこれからもやってまいりますので、(よ)さん、これからも宜しくお願いします(笑)。
ちょっと体調を崩して、朝ランもローラーも3~4日ほどお休み状態。運動していないといろいろと考えるもんで、特にネガティブ方向へ考えが行く。この夏のTTの機材に関して、ある筋からwとても良い情報をもらったのだが、このまま飛びついていいものなのかどうか、激しく葛藤中である。早い話が「TTフレームのええのありますよ」とのこと。
自他共に認めるコルナゴ信者である。ロードフレームを念願のコルナゴC59にすることができ、私の夢は達成されたかのように思える。しかし、TTフレームもシクロクロスフレームもコルナゴのラインナップに用意されている。これら全てをコルナゴでそろえることによって、ようやく真のコルナゴ信者と呼べるのではないだろうか…。コルナゴなんてどうでもいい人からしたら、とてつもなくアホらしいことかもしれないけど、コレクションとはそういうものだ。
むう・・・・、宝くじ・・・・ブツブツ。
生涯スポーツ
バルセロナ五輪シンクロナイズドスイミング銅メダリストの奥野史子氏は、私の1つ年上で3人のママさんである。特に縁もゆかりもないないけれど、仕事中などに良く聴くAMラジオのパーソナリティをやっていて、“元アスリート目線”と“関西のおばちゃん目線”のギャップが、コメントの歯切れの良さと相まって面白いので個人的に好きなのだ。
その奥野史子氏がトライアスロンに挑戦するという。仕事を持ち、子供3人を育てながら3種目の練習なんて大変だろうなと思う。それでもそんな困難に立ち向かうあたり、やはり元アスリートということなのだろう。目標を達成した後の感動や快感を知っている者の、ごくごく一般的な衝動なのだと思う。そしてそれを自分の生涯スポーツとして続けていくことにより、心身共に健全な状態を維持していきたいとのことである。
自分にとっての自転車は、よくある一時的なマイブームというものではなく、恐らくこれからも続けていくであろう生涯スポーツとなった。自転車に乗っていると体力も付くし燃焼系のカラダにもなれる。そうして得た健康が、日々の生活や精神の平穏に繋がるということを、身を持って知った。
なんか「生涯スポーツ」と言うと、「歳をとってもできるぐらいのレベルでゆっくりと無理をせず、競技とか競争とかそんなんとはちょっと温度差があるねんな~」というイメージであるが、自分はちょっと違うかなあと思う。やっぱり何か目標があって、それに挑む意識があるから続けられるのであって、もしもなんにも目標がなかったら、やる理由がない。
そう、なんでも先に「理由」を用意しといて、そのために早起きしたり、禁酒したり、新しい機材に散財したりするのだ。そのオマケに「健康」が付いてくるぐらいで(まあそのオマケがオイシイのだが)いいと思う。奥野史子氏だって、全く心身の健康のためにトライアスロンをするわけではないと思う。そこはやはり競技者として、少しでも上位を狙って頂きたい。生涯スポーツは、そう在るべきだと思う。
20km走ってみた
自宅から高速の下で豊里大橋まで行き、そこから堤防沿いに毛馬まで。毛馬から大川沿いで大阪城にデンして自宅までの約20km。2時間15分ぐらいかかった。まあ現段階で2時間切れるとは思ってないし、そもそも20kmも脚がもつのかどうかを試したかったのでのんびりと。
去年、一昨年とマラソンを一生懸命頑張ってたころに比べると、脚の痛くなる部分が変わった。補給のタイミングもずれてるし、大阪ハーフで2時間切った頃のつもりで走ったらとんでもないことになるだろう。それがわかっただけでも良かった良かった。
久しぶりに大阪城公園をぐるりと走ったけど、祝日ということもあってランナーさんがとても多かった。いつも練習コースにしている河川敷だってランナーさんはいることはいるけど、ほとんどが高齢者のような気がする。その点大阪城公園には垢抜けた若い女性がたくさん走っていて、しんどくてもちょっとペース上げてしまうもんである。
我が家から大阪城公園へは信号をひとつも通らずにノンストップで行くことができる。大川沿いは川面に大阪の橋やビル群が映り、春になると桜並木が綺麗で、とても風情のある道のりで個人的には気に入っている。
ところが毛馬から豊里大橋までの淀川沿いは、大川沿いとはガラリと雰囲気が変わる。都会と自然が織りなす美しい風景から打って変わって、堤防沿いの古い家屋、野良犬と暮らすダンボールのおっちゃん、錆びた鉄橋、ブルーギルの死骸、定期的に登場するうっとおしい車止め、汚い簡易トイレ、年中走る工事車両など、そこには風情や情緒を感じる猶予も無く、だたひたすらに日々の生活に追われる庶民の縮図があるように思う。
そして何を隠そうこの私も、そんな“淀川沿い”で生まれ育った人間である。だから、大川沿いをランニングする時は、時間と気持ちに余裕がある休みの日だけで、家事や仕事の合間を捻出して走る時は、「同志」のいる淀川沿いなのだ。別に決めたわけじゃないけど、そういえば自然にそうなってたなあと、走りながら気が付いた次第。
『モンスター』 百田尚樹 幻冬舎
以前読んだ『永遠の0』や、『風の中のマリア』でお馴染み百田尚樹。この人の本はストーリーの中に、取り上げられる題材についての解説書かと思うぐらいの詳細な記述があって、小説なのか解説書なのかどっち付かずな文章に慣れるまでは違和感があったりするけど、私も百田尚樹3作目ともなれば予備知識は十分である。太平洋戦争の神風特攻隊の物語、スズメバチの物語ときて、今回の『モンスター』は、醜い顔を持って生まれた女性が整形手術によって美人になって行くというストーリーである。
主人公は小学生時代からブサイクなことでひどく虐められ続けていた。ひょんなことからやってみた二重まぶたの手術をきっかけに美容整形にハマっていく。綺麗になるにつれて周りの男達の反応が変わっていく様がやけにリアルである。
今回は美容整形に関する施術方法や、人が「美しい」と感じる顔の形などの記述が豊富で、男の私としては大変興味深く読んだ。主人公の女性を「私」という一人称を用いて常に主人公目線で物語が進んでいくので、整形後の感動や違和感、痛みや入院期間や施術費用まで、まるで自分が整形手術をしたかのように思えて、きちんと丁寧に取材したんだろうなという印象がある。
ただ、やっぱりそこは男の筆で書かれているので、もしかしたら女性がこれを読むと、整形手術に感する情報は参考になると思うが、本当の女性の心理は少し違ったものなのじゃないかなと思った。それよりも、美人に変身した主人公を口説き落とそうとする男性の滑稽さが目立ち、思わず赤面してしまう男性も多いのではないだろうか。
ストーリー自体は淡々と進んでいく。特にどんでん返しがあるわけでもなく、あ~自分だったらここでこんな事件を用意するだろうなあなんて考えながらのところがあったが、この物語はミステリーでもなんでもなく、「美人は得をし、ブスは損をする」という社会のタブーというか常識というか、そういうちょっとグレーなところを突いた作品ではないかと思う。
個人的にはラストのエピローグはいらんかなと思う。中村うさぎの解説は秀逸。やはり美容整形に関しては、男性目線と女性目線では少し違うと思った。この作品、ヨメに薦めてみようと思います(笑)。
『プラチナデータ』 東野圭吾 幻冬舎
舞台は近未来。凶悪犯罪における現代のDNA捜査は容疑者と証拠品が同一人物のものかどうかを確認するだけのものだけど、この物語の舞台ではさらに進化していて、性別、身長、体重、体型、肌の色、足のサイズ、髪の量、持病など様々なデータを読み取ることができるようになっている。さらにそのデータを解析してモンタージュ写真を作ることができ、しかもその容疑者の血縁関係者をも検索することができるという時代。
とある殺人事件が起こり、いつもの様に犯人が落とした髪の毛からDNAデータを解析すると、なんと解析者本人のDNAだった。追う側から一転して追われる側に立場が変わってしまうという、まるでハリウッド映画のようなストーリー。まさかと思って調べてみたら、やっぱり映画化されてたのね。何度も言うようだけど、最近の売れっ子小説家は、映像化されることを前提にしてるようにしか思えない。私のような読書初心者にとっては脳内で映像が描きやすいので助かる面もあるけど、本が売れないこのご時世、映像化して2段階で儲けたろという下心があるのではないかとやらしいことを考えてしまう。
ひとつの事件がやがて大きな陰謀へとつながり、物語は意外な方向へと進んでいく!……ことはなく、まあ主人公にとっては意外な方向かもしれないけど、読者にとっては予想できる展開と言えないこともない。協力者の現れ方もどこかの映画でみたことあるように思うし、真犯人の意外性もあんまりないし、たくさん散りばめられる伏線のまとめ方が、最後の方で無理くり根性包みしたような印象も若干ある。なんだか先に映画化されてる作品を小説化したような感じが否めない。
電トリ、ハイデン、NF13、Dプレート、モーグル等、この物語の中だけの単語がたくさんあり、作者のアイディアの豊富さには素直に感服する。ここ最近の東野圭吾作品のほとんどは映像化されている。私は東野圭吾が好きなのでなるべく原作本を読むように心がけているが、これだけ映像化されたものがヒットするということは、原作が映像化するに持って来いの素質があるからであり、もうちょっと言うたら、東野圭吾を楽しみたいなら映像化されたものを観るだけでええんちゃうかという気にもなってくる。
せっかく飲酒量を減らして家事育児の隙間を縫って読書に充てる時間を捻出して読んでいるのに、ボケーっと観てるだけで東野圭吾に触れた気になってしまう映像化にはちょっと賛成しかねる。時間をかけて読書してる者が損した気分になってしまうのは私だけだろうか。なんか感想文というより愚痴みたいになってしまったけど、そんなことを考えながら読み進めてたのは事実。ちょっと読むジャンル変えてみよかな…。