スプラトゥーンに学ぶ

 「スプラトゥーン」というものをご存知だろうか。スプラトゥーンとは任天堂Wii-Uのゲームソフトで、武器を使ってインクを塗りたくり、自陣のエリアを多く塗ったほうの勝ちというシンプルなルールのアクションゲーム。インターネットで他のプレイヤーと対戦したり、武器や装備を色々と変更して性能の違いを楽しんだりすることができる。任天堂にとっては久しぶりのスマッシュヒット作である。
 
 実は私はこのゲームが大嫌いである。何故かと言うと、半年ほど前に息子がこのゲームを買ってもらってからというもの、週に2回それぞれ2時間までと決めていたゲーム時間のルールを破るようになったからである。ゲームをする時間を捻出するために、頭が痛いだのお腹が痛いだのと親に嘘をついてまで学校を休んだり、あれだけ尽力して応援していた少年野球を辞めてしまったりと、小5にして早くもグレ始めた要因となったゲームであり、このゲームさえなければ何事にも一生懸命で真面目な息子だったのである。
 
 そんな息子の行動に憤慨した私はきつく息子を叱りつけ、ゲーム本体を隠したり、それでも見つけ出してこそこそとやっていたのを発見したときはゲームの配線を鋏で切ってしまったこともある。
 
 しかし少し落ち着いて考えてみると、本当にグレる原因はゲームにあるのだろうか。同じようにゲームをやっている子どもはたくさんいる。不登校にもならず、少年野球も辞めず、それでもスプラトゥーンを楽しんでいる子どもたちはたくさんいるのである。果たして、親の感情の赴くままに「スプラトゥーンは悪」と決め付けて良いものだろうか。
 
 だから私は、その悪と思われるゲームが本当に悪なのか、難しい年頃の息子を育てる親として、その悪にしっかりと対峙するべきではないかと思い、水・木と平日に連休を取って、合計約12時間ほど必死でやってみたのである。
 
 最近のゲームは操作が鬼のように難しい。単純なボタンのみだったファミコン世代である私は、コントローラーのボタンがどれがどれなのかを覚えるだけでも大仕事である。今までは親指だけでよかったのに、今や人差し指や中指まで動員しなければいけない。ましてやそれを反射的に押してキャラクターを思いのままに操作し、ちょこまかと動き回る敵を撃つなど至難の業である。
 
 何度も諦めようと思った。
 
 しかししかし、これを乗り越えなければ、もう一度あの頃のようにキラキラした笑顔の息子と向き合える日々は来ないのではないかと思うと、攻略本を買いに本屋まで走ったり、youtubeで勉強したりするのである。なんとかかんとかランク15(最高は50)まで上げることができた。
 
 このゲームは面白い。私から息子を奪った憎きこのゲームは本当に面白い。10年かけて築いた親と息子の関係を、このゲームはいとも簡単に超えていったのもうなずける。何故にこのゲームは面白いのか。これを考えることが大事である。このままでは私もゲームおたくになって会社をズル休みするようになってしまう。
 
 とにかくこのゲームはスリリングでエキサイティングである。そして頑張った分だけそれに見合った見返り(アイテムやランクなど)が魅力的で、よしまた次も頑張ろうとなる。さらに大変褒め上手である。何度失敗しても何度でもやり直しさせてくれる。少しのペナルティは発生するがたいしたものではない。
 
 報酬とペナルティーのバランスが絶妙で、失敗しても怒られず、クリアすれば褒められて、他プレイヤーとの競争もあり、そりゃ子どもは親よりもこっちに心を奪われるだろうなと思った。理不尽な制約、強制的なしつけ、自分の時間を奪う数々の弊害。子どもを取り巻く環境は、親が思う以上に各方面からスプラッシュを受け、どのインクの色に染まろうかと悩み続けている。
 
 私がこのゲームを理解してからは息子との共通の会話も増えたし、心なしか笑顔も増えたように思う。ただただ頭ごなしで強制的に支配しようとしていた自分を猛省するとともに、子どもが置かれている環境と自我の目覚めをしっかりと見極めていかなければならないと、スプラトゥーンに教えてもらったような気がする。
 
 今夜もイカしたコーデとブキで塗りまくりたい。

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英会話

 珍しくずっと続いている英会話学習。とはいえスピードラーニングをただただ聞き流して、わからない単語や言い回しがあったら調べ、時間と心に余裕のあるときは万年筆で文章を書き写す、ぐらいのことしかやってしない。つまり「アウトプット」していないので、聞いたり読んだり書いたりすることはできても、英会話でもっとも肝心な「話す」ことがなかなかできないのである。英会話ではなく、ただの英語の勉強になってしまっている。
 
 スピードラーニングを制作しているエスプリラインは会員向けにいろんなイベントをやってくれていて、その最たるものがイングリッシュパーティーだ。エスプリラインの外国人スタッフが各地方にやってきて、食事をしたりお酒を飲んだりしながら外国語交流をするというもので、私も大阪と京都で2回ほど参加したことがある。
 
 外国人スタッフが5~10人ぐらい。彼らがそれぞれ4~8人掛けぐらいのテーブルに1人づつ着き、英会話勉強中の日本人が取り囲んで食事などをしながら雑談するというスタイル。もちろん日本語は基本的に使わないですべて英語を使う。私を含めてほとんどの参加者が単語の羅列でしか会話できないレベルなので気負うこともなく、外国人と接する機会の少ない人にとってはなかなか楽しいイベントである。
 
 結構真面目に“聞き流して”いるし、時には辞書を開いたりするので変な自信を持っていたのだが、やはり会話のスピードについて行くことができず、頭の中で文章を組み立ててからでないと言葉が出てこない。習うより慣れろとはよく言ったもので、会話の勉強はCDや辞書ではできないものだなあと痛感することしきりである。
 
 少し話は変わるが、私は家庭内ではあまり妻と会話をしない。業務連絡的なことをする程度。その業務連絡でさえメールで事足りることばかりなので尚更である。普段仕事で接客をしているので、なにかしらの意見を妻に対して訴えたいときには、接客するように話したほうがこちらの思いが的確に伝わる気がする。夫婦生活がどうこうと言った方向に話題を進めるつもりはなく、ふだん使っている言語が自分のアウトプットのベースになるということを言いたいだけのことで他意はない。
 
 ということで、外国人の飲み友達などがいない私の英会話学習は、おそらくここらで“頭打ち”というところであろうか。いやいやまだまだ勉強できることはたくさんある。普段英語を使わない人間がどこまでできるか。これからもチャレンジしていきたいと思う。

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2016明けましておめでとうございます。

 お久しぶりです。M君です。
 
 鈴鹿の記事から約2ヵ月弱も更新を開けてしまった。やはりメインの趣味である自転車をテーマにしたブログだったので、その趣味が低迷してしまうとブログを更新する理由もなくなるのだなと改めて感じる。
 
 最近は本当に調子が悪い。今のところ体調は良好なのだが、仕事や家庭のことで大変調子が悪いのである。それがいずれ体調に支障をきたすようになるのは想像に難しくない。なにが原因なのかを書き出すとキリがないしただの愚痴になってしまうおそれがあるので控えるが、とにかく何もかもが面白くないのである。
 
 新年早々の記事がこんなネガティブな内容でいいのかと思ったが、事実そんな気分なんだからしょうがない。まあ“あとは上がるだけ”と、半分やせ我慢で前向きに考えておこう。
 
 
 今年の年末年始の休みは結構長かった。去年はハワイで過ごすという庶民にはありえないことをやってのけたが、今年はおとなしく近場で子供たちとゆっくりと過ごした。
 
 まず、淡路島へ魚釣りにでかけた。
 
 私は魚釣りには向いていない。だからやったことはあっても自分から進んでやるということはなかったのだが、今回は長男が珍しくやりたいと言い出したので行くことにしたのである。
 
 釣果は言わずもがな。釣り場に不慣れな初心者が子ども3人を連れてできることなんて大したことが無い。早朝から出かけてまさかのボウズかと思ったが、地元の人のアドバイスなどに助けられなんとか最悪の事態は免れた。10cmほどのイワシが数匹と、ちょっと大き目の金魚かというぐらいのサイズのガシラが釣れた。
 
 それでも子どもは単純である。竿に感じる魚の躍動が興奮を呼び、大変良い思い出となったようだ。うちの嫁は魚をさばくことができない(というよりも小さすぎてどう調理すればよいかわからない)ので、実家の母親に頼んでなんとか食べられる状態にしてもらった。普段は魚嫌いの子どもたちも自分が釣った魚だと思うと食べられる。不思議なものである。やはり子どもはインスピレーションのみで生きているのだなあと感じる。
 
 
 連休後半にはスキーに行くことも予定していたのだが、生憎の雪不足によりスキー場が開場していないようで中止に。それではと近所にあるスケートに行ってみることにした。スキーがダメになってスケートに変更するという家族は多いみたいで、普段は閑散としている公営のスケート場は家族連れで賑わっていた。
 
 私は実はスケートが生まれて初めてだった。インラインスケートはやったことがあるのでそれほど難しくはないのかなと高をくくっていたが、これが実際やってみるのとは大違いでなかなか安定することができなかった。とりあえず前に進むことができるぐらいで、片足はおろかバックで滑るなど、どうやったらそんなことができるのか全く想像がつかない。
 
 スケート場で目立つのはやはり上手な人である。
 
 特に小中学生の女の子がスケートをする姿はとても素敵である。我々のダサい貸し靴とは一線どころか二線も三線も画するスマートな自前のシューズを履き、ぴちっとしたタイツをかかとまで被せて、まるでフラミンゴのようにスラっと脚が長い印象を与えてくれる。そんな子がクルクルとスピンなどするものだから、末娘が頭を打って泣いていてもまったく気付かなかった。
 
 
 そういえばボウリングにもでかけた。
 
 私の連休最終日は世間はすでに仕事始めということもあって、開店早々のボウリング場はガラガラだった。ところがしばらくプレイしていると、近所の愛好家と思われる高齢者がわらわらとやってきて、あっという間にほとんどのレーンを埋めてしまった。
 
 私も含めて我が家はボウリングがヘタなので、60行くか行かないかのスコアで楽しんでいる子どもたちなどは、バカンバカンとストライクを連発する高齢者を眺めてポカーンとしていた。
 
 60~70台の高齢者は今年も大変元気である。
 
 先のスケート場でも女子小中学生の次に目立っていたのはスケートに一家言持っていると思われる高齢者である。このあたりの年代は第一次ベビーブームで大変人口が多い。そしてもっとも景気が良かった頃にブイブイ働いてブイブイ遊んでいた時期の年代である。60・70になってあらたに自由という楽器を得た今、まさに人生を謳歌している。羨ましい限りである。
 
 
 
 まあそんなこんなで2016年が始まった。文章を書くとストレス解消になる。これからは時間の許す限り、日々の徒然と心の揺れ動きを恥ずかしもなしに書きなぐっていこうと思う。

低糖質を選ぶという行為

 突然だが、最近「ライザップ」に大変興味が沸いている今日この頃。皆さんテレビCMなどでよくご存知の、結果にコミットするアレだ。ここで細マッチョの画像やリンクを貼らないところがこの日記の良いところ(?)である。
 
 別に筋肉モリモリに憧れているわけではないのだが、最近の体たらくにより少々お腹に浮き輪が付き始めた姿を風呂上りの鏡などで確認してしまうと、なんだかこのまま何もせずに堕落の一途を辿って行くことは、もともと細身でクライマー体型だと自負していた私の存在意義にまで目を背けることになるのではないかという、言わば一種の焦りのようなものが、あのインパクトのある広告に興味を向けさせているのであろう。
 
 しかし入会金や必要経費など含めて約50万円ほどかかるらしい。それだけのお金を出せば細マッチョになれないわけがないとは思うが、小遣い制のサラリーマンにとって、細マッチョに賭ける覚悟を買うにはソーエクスベンシブである。
 
 ライザップのボディメイキングを色々と調べていると、「糖質を控え、脂肪燃焼率の高い筋肉を鍛える」ということが屋台骨となっているようだ。つまり、糖質からエネルギーを得るのではなく、脂肪からエネルギーを取り込むカラダに改造するということらしい(シロートなので間違っていたらすいません)。
 
 「・・・・なんだか自分でもできそうである」
 
 おそらく同じコトを考えている40台男子はソーメニーのはずだ。
 
 そこでワタクシ、先日から低糖質食材しか口にしていない!
 
 米、麺類、芋、などもってのほか!
 
 コーラ?自殺行為!
 
 肉、魚、豆腐、カモン!
 
 ゆで卵、チーズも大歓迎だ!
 
 ビールはいかん。最近はもっぱらハイボールだ!
 
 そして筋トレも忘れちゃいかん。今朝は城北公園に行ってお年寄り用に設置された筋トレ遊具を片っ端から占領したぜ!
 
 自転車に一生懸命に乗っていた頃、レースの前に「カーボローディング」と称して炭水化物ばかり摂取していたことがあったが、あの頃の自分を殴ってやりたい。すぐに集団から千切れるレースのためにカーボを溜め込んでどうするのだ!そのしわ寄せが現在の自分を苦しめているぞ!
 
 
 ・・・・・。
 
 熱くなってしまった。
 
 前述したが、この「セルフライザップ」に挑戦するビンボー男子は大変多いだろう。そしてその成功例をあまり見かけないことが、本家ライザップを繁盛させている証明であることは重々承知しているし、本家ライザップで見事ボディメイクに成功した人が聞いたら、まさに失笑モンであろう。
 
 そして「何か新しいことをおっ始めたM君の日記は筆が進む」ということも、このブログを長く楽しんで下さっている方々はご承知のことかと思う。
 
 しかしこの「セルフライザップ」。なんだか手ごたえを感じている。先ほどからワクワクと疼く腹筋をかるくさすりながら、脂肪を燃焼させている肝臓の働きを。
 
 もしかしたらハイボールの分解かもしれないが。
 

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ループ

 この世に生を受けて42年目に突入している。まだまだたくさんの諸先輩方が活躍されている中でこんなことを言うのもおこがましいけれど、だいたいの「人生の落としどころ」みたいなものが見えてきたように思う。
 
 今一度、自分の人生の目標を考えてみる。どうなれば満足なのか。どこに行けばゴールなのか。
 
 「人生」と言ってしまうと範囲が広すぎるので細分化してみたい。
 
 「仕事」・・・ある一定の年収を超えること。自動車整備士という職業の社会的地位向上。
 「家庭」・・・まずはローンの完済。そして子供3人の独立(自力で給料を稼ぐ時点)。
 「健康」・・・早死にの家系なので期待はしていないがせめて定年までは無病息災で。
 「生活」・・・クルマはクラウンに乗りたい。バイクはアフリカツインに乗りたい。
 「身なり」・・・ジョージクルーニー。
 「英会話」・・・外国人のお客さんが定着するぐらいのレベルにはなりたい。
 「定年後」・・・自宅に書斎を作る。
 
 書いてみるとそれほど難しいことではないように思えてきた。一番の難関はジョージクルーニーであろう(笑)。ビジュアルもさることながら、あの嫌味のないセレブ感を出すにはそれまでの良い人生の積み重ねに寄るところが大きいだろうと思う。
ダウンロード
 
 ともかく、こんな感じで今度の人生を進めていきたい。
 
 
 
 ところで先日、木馬仲間と自衛隊ループを走ってきた。気持ちよかった。
 こういう仲間の存在が、私をジョージクルーニーに近付けさせるのである。
 これからも宜しくです。

飽きるスピード

 息子宗一郎がまた新しいゲームを買ってもらった。ゲームウォッチ~ファミコン世代の我々にとっては、最近のゲームの作り込みのすごさにただただ感心するばかりである。面白い設定、美しいグラフィック、楽しいストーリー、キャラクターのモチーフなどなど、開発者の脳みそを捻りまくって生み出されたゲームなんだなと、他人事ではあるが本当にお疲れ様~である。
 
 ところが、そんなに拘りまくって開発したであろうゲームでありながら、「子供たちに飽きられる速度」がとても速いように感じる。ただ単純にブロックを崩したり、ぴょんぴょんと樽を飛び越えたりするゲームのほうがはるかに楽しむ時間は長かった。私が小4のクリスマスに買ってもらった『オクトパス』とかいうゲームウォッチは、小学校を卒業するまでやり込んだ覚えがある。
 
 まあそれだけ子供たちの興味をそそる楽しみが増えたということはいいことなのだろうが、大量生産大量消費のこの世の中、せっかく手間ヒマかけて作り上げたモノがあっという間に世間に飽きられるということは、開発者や生産者にとってやるせないことなのではないだろうか。
 
 反対に、我々消費者側も、新しい“モノ”や“コト”を与えられたときに、上手に自分の飽きる速度をコントロールしないと、あっという間にその事柄について調べがついてしまい、あっという間に収集が終わってしまい、あっという間にゴミの山となり、あっという間に飽きてしまう恐れがある。
 
 だから、もっとじっくり長く楽しむために、あんまり頑張らないということが大切なのだと思う。
 
 

2015お盆休み

 8月12日・・・昼間は子供たち3人を連れてミニオンズ観賞。アメリカンなバカバカしい笑いがなぜか私のツボにハマり、観賞後、グッズなどに散財してしまう。子供たちも喜んでいたのでまあいいか。
 
 夕方からは以前の職場の後輩と飲み。正直言って自分の今までの人生で何かを残してきたという自負はまったくなかったが、こうやって今でも慕ってくれる人間がいるということが、自分の過去の存在を形をして確認できる、唯一で最も大切なことなんだろうなと思う。しかもこれからの自分の人生において非常に有益な情報を持ってきてくれた。情報を有益化するのは結局は自分の腕次第・頑張り次第ということだが、それでもありがたいことである。
 
 
 8月13日・・・甲子園へ高校野球観戦に以降と予定していたのだが、どうも天気が怪しいので予定変更。朝から夏休みの宿題に付き合い、なんとか枚数だけはたくさんあるプリント関係だけは終わらせる。工作もやっつけて、のこりは自由研究。伊吹山登山をして、高山植物の観察に行くことにした。子供の希望というより私の希望。特に大きな理由はないが、なぜか伊吹山に登ってみたくなった。
 
 
 8月14日・・・朝400起床。430クルマで出発。末娘は昨晩から実家に預け、上2人とクルマで出発。生憎の天候で、伊吹山ドライブウェイ入り口から見上げる頂上付近は霧で覆われている。でもまあここまで来たからには登るほかない。
 
 頂上駐車場までの山道は時折きれいに晴れ渡る箇所もあって景色も楽しめたが、頂上は視界10mほどの濃霧。遠くの山々を眺めるなんて全くできなかったが、自由研究の課題は高山植物である。足元さえ注意して歩いていればいいわけで、なんとか目標は達成できたのでヨシとする。
 
 登山終了時点で朝10時。相変わらず早起き行動が好きである。この日の目標を達成した時点でまだ一日は始まったばかり。混み始めた登山道を尻目に早起きは三文の得を実感しつつ帰路へ。帰宅してから宿題を仕上げ、昼寝なども嗜みつつ、夜は高校時代の友人と飲み。
 
 
 8月15日・・・特に大きな予定無し。ヨメ実家でお昼ご飯を呼ばれ、帰宅してからは昼寝などを嗜む。夜は木馬仲間と飲み。この盆休みは大いに散財し、大いに飲んだ4連休であった。

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一周まわってココ

 我々サイクリスト(すでに私自身をサイクリストのククりに入れても良いのか悩みどころではあるが)は、「どこどこを一周(周回)する」という行為が大好きである。
 
 関西圏であれば「淡路島一周」「琵琶湖一周」など馴染みのツーリングもあるし、「舞洲周回」「堺浜周回」などの比較的短い距離をひたすら周回するトレーニングもある。単純明快でわかりやすく、距離やタイムも比較しやすくて他人にも自慢しやすい、それはサイクリストだけではなくランナーなどにとっても非常にポピュラーな行為である。
 
 ただ今回はそういった目で見てわかりやすい物理的な「一周」ではなく、異なった観点からの「一周」について述べてみたい。
 
 
 先日、スリックタイヤを履かせたシクロクロス車で町内をぶらぶらしていたら、結構な速度差で見知らぬローディーに追い抜かれたのである。ヘルメットやジャージの着こなしがなんとなく板に付いていないというか、垢抜けていないというか、とにかく初心者っぽい感じで、あー最近ロードバイクを買って楽しくて乗り回してるんだろうなと、私もそんな時期があったなあと、若干上から目線でほほえましく彼のロードバイクを後ろから眺めながら考えていた。
 
 最新のフレームでホイールもディープリム。リヤブレーキが見たことも無い位置に付いている。はー、ロードバイクも進化したなあなんて思っていると、信号待ちで並んだ彼は、私のカンチブレーキのCXバイクを見て、明らかに鼻で笑ったのである。
 
 まあ、もうそんな態度に腹を立てるようなバイタリティーもモチベーションもないので、その態度についてはなんとも感じなかったが、これだけは言いたい。
 
 「オレは一周まわってコレやねん!」と。
 
 フルオーダーのクロモリバイクも乗った。フルカーボンバイクも乗った。MTBも乗ったしTTバイクもCXバイクも乗った。一通り乗って、それでコレやねん!
 
 自転車屋の店長と仲がいいし、家族ぐるみでお付き合いさせてもらってるし、そこのクルマの車検はオレがやってるし、ママチャリ取り扱ってないのにヨメが勝手に自分のママチャリの修理持って行ったりするし、もうなんやったら二周以上して、それでコレやねん!
 
 
 バイタリティーがないとか言っておきながら熱くなってしまったが、とにかくそういうことである。私はもう「一周した」のである。一周してココなのである。
 
 「一周すること」自体になんの社会的な価値も名声もないけれど、決して短時間では成し得ることのできない「一周」に、私個人的には大変意味深いものを感じているし、「一周した者」にしか見えない何かがあると信じている。
 
 人生は「行って終わり」の片道ではない。同じ失敗や過ちを何度も犯しながらの周回コースである。「人生経験が豊富」ということは決して「遠いところまで行ってしまった」わけではなく、「周回を重ねるうちに円周が広がっていった」のである。
 
 酔っ払ってオネーチャンにちょっかい出して嫌われても、ふらついてコケて擦り傷を作っても、また同じことを繰り返す。それこそが正しい人生経験の重ね方であろう。今宵も人生という名の周回コースを迷走してみたいと思う。
 
 

マイル表示

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 ガーミン先生の速度と距離の表示をマイル表示に設定してみた。
 
 私もスピードラーニングを始めて約1年。そろそろ英語をマスターしつつある今(してへんけど)、アメリカに移住してしまおうかという計画が浮上している(してへんけど)。アメリカの交通で一番違和感のあるのは右側通行。そして次にすべてがマイル表示であることだろう。
 
 いちいち脳内でkmをmileに変換するのではなく、マイルで表示されている数字を見たその直感で、距離や速度が理解できるようにならないと、アメリカの車社会には付いていけないのである(いけへんけど)。
 
 というわけで私のガーミン先生は、日本人の私に対して全くなじみの無い“マイル”で情報を提供してくれることとなった。今までもすべて英語表記であったために、なかなか私とガーミン先生の距離が縮まらない感は否めなかったのだが、これでさらにガーミン先生は私を突き放してくることになる。
 
 そんなドSなガーミン先生に、これからも付いていきたい。
 

2

整理

 少し前になるが、シクロクロス車のブロックタイヤがすり減ってきたので交換した。悩んだ挙句、ブロックではなく32Cと太めのスリックにして、通勤メインの乗り心地優先街乗りバイクとすることにした。
 
 このタイヤ交換をもって、シクロクロスには出場しないという暗黙的意志の表れであることをご理解いただければと思う。つまり今後、「シクロ出ないの?」の質問にはノーコメントとさせていただきます(笑)。
 
 私の部屋には現在、自転車が4台ある。そのうち2台はほぼ乗っていない。子供も大きくなって1つの部屋を必要としている時期が迫っている中、これ以上自分の“モノ”で部屋を占領するわけにもいかず、思い切って整理することにした。
 
 私はこれまで、ありとあらゆることに手を出し、金と時間を遣い、モノを増やし、そして飽きてきた。それらが無駄だったということはない。むしろ経験として今の自分に蓄積されているし、そこで得た仲間は何物にも代え難い大きな財産である。
 
 ただやっぱり、それに執着しすぎてしまうと次に進めなくなる。せめて“モノ”だけでも整理をして、まずは物理的なスペースを確保することが、心理的余裕を生むのだと思う。
 
 家族ができて、家族とともに成長し、これからも家族であることを考えると、家族に合わせて自分も変わっていかないといけない。具体的に言うと、奔走して仕事の段取りをつけて取得した日曜の休みを自転車ではなく少年野球の行事に充当することが、正しいお父さんの姿である。
 
 40歳も1つオーバーして、自分の方向性をどこに見出すか・・・そんなことで悩んでいたけど、自分は家族と一緒の方向に進んでいこうと思う。じつはそんなこと目の前にずっと前からわかってて、それに気づかないふりをして自分のやりたいことやエゴを押し通してきたからストレスになっていたのかもしれない。
 
 まだ自転車は捨てていないが、こう心に決めただけでもなんだかスッキリしている自分は単純である。