『プラチナデータ』 東野圭吾 幻冬舎

 舞台は近未来。凶悪犯罪における現代のDNA捜査は容疑者と証拠品が同一人物のものかどうかを確認するだけのものだけど、この物語の舞台ではさらに進化していて、性別、身長、体重、体型、肌の色、足のサイズ、髪の量、持病など様々なデータを読み取ることができるようになっている。さらにそのデータを解析してモンタージュ写真を作ることができ、しかもその容疑者の血縁関係者をも検索することができるという時代。
 
 とある殺人事件が起こり、いつもの様に犯人が落とした髪の毛からDNAデータを解析すると、なんと解析者本人のDNAだった。追う側から一転して追われる側に立場が変わってしまうという、まるでハリウッド映画のようなストーリー。まさかと思って調べてみたら、やっぱり映画化されてたのね。何度も言うようだけど、最近の売れっ子小説家は、映像化されることを前提にしてるようにしか思えない。私のような読書初心者にとっては脳内で映像が描きやすいので助かる面もあるけど、本が売れないこのご時世、映像化して2段階で儲けたろという下心があるのではないかとやらしいことを考えてしまう。
 
 ひとつの事件がやがて大きな陰謀へとつながり、物語は意外な方向へと進んでいく!……ことはなく、まあ主人公にとっては意外な方向かもしれないけど、読者にとっては予想できる展開と言えないこともない。協力者の現れ方もどこかの映画でみたことあるように思うし、真犯人の意外性もあんまりないし、たくさん散りばめられる伏線のまとめ方が、最後の方で無理くり根性包みしたような印象も若干ある。なんだか先に映画化されてる作品を小説化したような感じが否めない。
 
 電トリ、ハイデン、NF13、Dプレート、モーグル等、この物語の中だけの単語がたくさんあり、作者のアイディアの豊富さには素直に感服する。ここ最近の東野圭吾作品のほとんどは映像化されている。私は東野圭吾が好きなのでなるべく原作本を読むように心がけているが、これだけ映像化されたものがヒットするということは、原作が映像化するに持って来いの素質があるからであり、もうちょっと言うたら、東野圭吾を楽しみたいなら映像化されたものを観るだけでええんちゃうかという気にもなってくる。
 
 せっかく飲酒量を減らして家事育児の隙間を縫って読書に充てる時間を捻出して読んでいるのに、ボケーっと観てるだけで東野圭吾に触れた気になってしまう映像化にはちょっと賛成しかねる。時間をかけて読書してる者が損した気分になってしまうのは私だけだろうか。なんか感想文というより愚痴みたいになってしまったけど、そんなことを考えながら読み進めてたのは事実。ちょっと読むジャンル変えてみよかな…。