悲しきMTB

 また自転車のハナシ。

 最近MTBに乗る機会が激減した。普段はほとんど通勤で乗るので、自宅にはロード1台だけがあり、MTBは実家でホコリをかぶっている。まあ、移動に使う道路の全ては舗装されたものしかないので必然とも言える。舗装路ではどう考えてもロードの方が速い。いくらMTBに細いタイヤをつけようと、いくら軽量化しようと、舗装路を走るのにはロードが一番適している。

 MTBに乗る機会が無いわけではない。回転木馬はしょっちゅうMTBイベントを計画してくれるし、自宅から少し足を伸ばせば、ダート路なんていくらでもある。しかしなんか乗る気が起こらないのだ。

 私はきっと、スピードに魅せられたのだろう。
 「自転車に乗っていて一番楽しい時は?」と質問されると、
 「スピードを出している時」と答えると思う。

 下り坂を自転車ではありえない程のスピードで走っている時のあの緊張感がたまらない。MTBのダウンヒルとは少し違う。苦しい坂を自分の足で上り、貯めに貯めた位置エネルギーという貯金を一気に使い果たすあの快感は何物にも換え難い。

 昨日仕事の帰りに、阪奈道路の長い下り坂を、トラックの後ろでドラフティングしながら80km/h近くを記録した時には思わず歓喜の声が出た。これが「ライダーズ・ハイ」というものなのだろうか。

 MTBで山の中に入り、きれいな空気を吸い、「やっぱり自然はいいね」なんて話をするのもすばらしいことだ。だけど私は、ディーゼル煙にまみれた都会の汚い空気を大きく吸い込み、その中から数少ない酸素分子を取り込んで、スピードに変換することに楽しみを見出してしまった。

 そんな自転車の楽しみ方をしているヤツもいるのだ。

ダイエット大作戦

 私がメッセンジャーをしていた頃、つまり「最速」の名を欲しいままにしていた頃、体重は63キロであった。177センチの身長にその体重だから、少しヤセ気味だったかもしれない。

 その後結婚し、会社の近くに引越し、出産だの何だので自転車に乗る機会が減った。帰宅してからは毎日缶ビールを2本程飲み、食事は3食共、規則正しく食べる。あれよあれよという間に太り、70キロ近くになってしまった。

 それからである。私が「遅く」なってしまったのは・・・。

 今までスイスイと上っていた清滝峠も中腹あたりで息が上がり、ハンドルを引いていた腕にチカラがなくなり自転車がフラフラする。ダウンチューブのボトルに手を伸ばすことさえ困難になり、乾いたカラダがますます体力を奪っていく。全然気にならなかったヘルメットのストラップが、まるで私の首を締め付けているような感覚になる。

 それだけならまだ良い。「最速」の者が「最速」でなくなる時、とてつもない精神的苦痛を伴う。以前は私の前など走ったことのない人が、私に背中を見せ付けている。「ああ(ハアハア)、この人のウェア(ハアハア)、後ろはこんな(ハアハア)、デザインだったのか〜」などと感心している場合ではない。

 「今日は体調悪いの?」
 「もしかして体力落ちた?」
 「あれっ。27Tついてるやん」
 「M君、遅なったなあ・・・」

 常に日本のロック界をリードする「最高」の存在といえばやはりB’zである。彼らは「最高」の名に相応しい態度や身なりや発言をし、「最高」の名に恥じないパフォーマンスを我々に提供してくれる。しかし影では、常に「最高」を維持し続ける為に「最高」の努力をしている筈である。それは言い換えれば、「最高」から転落することを誰よりも恐れている、ということにならないだろうか。

 私が「最速」から転げ落ちた時、相当のショックを受けた。あまりのショックに白髪が増えた。これを読んでいただいている私の自転車仲間のみなさん、そんな私の精神状態を理解してくれてますか!?好き勝手言っちゃってくれて!

 いやいや、そんな八つ当たりをしている場合ではない。私は「最速」であり続ける為の努力を怠っていた。私はB’zのようにならなければいけない。B’zに憧れて楽器を始める若者がいるように、私に憧れて自転車に乗り始める若者もいる筈だ。体力の低下と共に、「最速」への執着心までも失ってしまったようである。速く走るだけが自転車の乗り方ではない、と自分に言い訳していた。

 今更、「清滝最速になります」とか「勝負したいヤツはいつでもかかって来い」とか「オレの前を走るヤツはみんなパンクさしたる」とかコドモみたいなことは言わない。私もいいオトナである。だがしかし、もう少しの間、「速く走る」ということにこだわってみたい。

 「速く走る」。それが私と自転車とを結びつけるキーワードなんだ。それがあったからこそメッセンジャーをやっていけたんだろうと思うし、ある意味その気持ちがなかったら、今の自転車友達との出会いはなかったかもしれないのだ。

 とりあえず、63キロに戻します。

かわいさあまって

 どんな親でも「自分の子はかわいい」と言うが、それは顔が自分に似ているからだと思われる。だから私も、私が子供の頃と同じ顔をしている息子は誰よりもかわいいと思っている。

 私の親戚がたくさん集まる場に連れて行っても、「パパの小さい頃にそっくりやなあ」と言われる。当然私もそう思うのでニコニコしながら聞いている。

 ところが不思議なことに嫁の親戚に見せると、「ママの小さい頃にそっくりやなあ」と言われるのだ。

 嫁がまだ子供の頃の写真を見たことがある。嫁を悪く言うつもりはない。そして自分をホメるつもりでもない。しかしどう見ても私の子供の頃の方がかわいく、そして息子は絶対に私に似ていると思うのである。

 嫁の子供の頃の写真は、目が小さくそしてタレていて、どの写真を見ても口がポカーンと開いている。ポーズといえばキョウツケばっかり。なんとも芸が無く、田舎の子供っぽくてアカ抜けた感じが全く無い。

 その点、私なんかは目がクリクリっとしていて、笑顔の写真ばかり。ピースしたりシェーしたり、もうかわいいのなんのって、幼稚園の先生に結婚を申し込まれたぐらいのかわいさだったのだ。

 親バカ発言として聞いてもらって構わないが、息子を連れて買い物に行くと必ず、「かわいいねえ」とか「男前になるわ〜」と知らない人に声をかけられる。つまり第3者から客観的に見ても、私の息子はかわいいということになる。

 そんな誰もが認めるかわいさを持つ息子が、嫁に似ているなんてことはありえないのである。笑顔なんて私にそっくりなのに、それが嫁に似ているだと!?

 嫁側の親戚は全員、目が悪いと思われる。あっ、それとも私の子供の頃の写真を見たことがないからそう思うのか?比較する対象が嫁の子供の頃の情報しかないからそう言うのか?もしかしたらホントは私に似ていることは認めているが、嫁に気を遣ってそう言っているだけなのか?

 いずれにせよ息子がもう少し大きくなってきたら答えは出る。それを見て嫁側の親戚一同言うであろう。「・・・やっぱりパパに似てかわいいやん」と。


 そんなある日、テレビにボーっと気を取られている息子の顔を見てみると・・・。
 「お・・・おいっ!お前ママと同じ顔してるやないか!コラッ!やめんかいその顔は!」

 私の遺伝子だけではないのが証明されました。

過保護と無保護のあいだ

 息子がテーブルの縁を持って立ち上がったり、目にしたモノをとにかく手に取って口に入れたりするようになった。ハイハイの速度も上がり、少しでも目を離すと「うおっ!そんなトコにおったんかい!」と、踏ん付けそうになることもある。しかしまだバランスが悪く、立ち上がってもそのまま後ろに倒れて後頭部を打ったり、ヒザのチカラが急に抜けてテーブルの縁でアゴを打ち付けたりしている。

 始めの頃は、ひっくり返って子供が大声で泣いたりすると、親はあわてふためきオロオロしていたが、最近はもうそんなことにも慣れてしまった。子供の行動範囲には一応クッションとなるようなモノを敷いてあるし、大声で泣いていても抱き上げるとすぐに泣き止んだりする。いちいちアタフタしていてはこっちの神経がもたない。

 今日もこんなことがあった。ペットボトルが好きなので、カラになったもので遊ばせていた。しばらく子供は機嫌良く座りながら手に取って眺めたり振ったりしていたのだが、そのうちフタの部分を口でくわえ始めた。「あ〜これはもしかしたら・・・」と思った途端に、ペットボトルのフタ部分が子供の口に「カポッ」とハマり、取れなくなってしまったのだ。

 「アウアウ」とも「オエオエ」ともつかない声を出しながら涙を流している子供を見て、私はその光景が面白くて、すぐに助けずに少し見入ってしまった。ペットボトルを取ってあげると、下の歯茎から少し血が出ていた。

 かわいそうなことをしたなあ、という気持ちはある。だけどあぶないからと言って今後ペットボトルで遊ばせない、というのは違うと思う。

 確かに親は子供の命を預かっている。親の不注意で子供をケガさせた、場合によっては殺した、といったようなハナシは後を絶たない。しかしそれは最低限のことを管理していないからで、親の怠慢以外の何者でもない。子供をクルマに残して買い物をする、なんてことはもってのほかである。

 子供は成長するにしたがって、行動範囲や視界や興味が広がるのは当然のことだ。それに伴うケガや事故はある意味仕方が無い。親が子供にしてあげられることは「命を守ってやる」ということではなく、「命が長く続くように工夫してやる」ということではないだろうか。

 ペットボトルを取り上げて遊びの数を限定するのではなく、広口ペットボトルを与えて口にハマらないようにしてあげるのが正しいやり方だと思うが、みなさんはどうでしょうか?

修理の法則

 (よ)さんがLOGOちゃんの修理で来店された。ドライブシャフトブーツの交換という作業で、左右交換して約2時間弱ぐらいの作業なのだが、(よ)さんはずっと私の横でLOGOちゃんのオペの様子を見守っていた。彼は自分の愛車がリフトで高々と上げられると、その下に入りしげしげと眺めている。その目が子供の目と全く同じなのでオモシロイ。

 ところで最近(よ)さんのLOGOを触る機会が多い。

 何かの研修の時に、「お客様がディーラーに来店されるのは年に約1.4回」というのを聞いたことがある。だからその少ない機会を大切にしてお客様を満足させないといけないよ、という内容だったと思う。確かにガソリンスタンドやカーショップなどに比べるとディーラーはかなり不利である。

 そう考えると(よ)さんのLOGOは結構多い来店回数となり、つまりそれは「最近よく壊れる」ということなのか。いやいやそうではない。点検したり部品を取り付けしたりする時も、1回の来店の内に入るので、「よく壊れる」ということではもちろんない。

 だから(よ)さん、安心して下さい。決してLOGOちゃんの寿命が近づいているということではなく、(よ)さんがLOGOちゃんのことを大切に思うから来店回数が増えるのです。前にも言いましたが、クルマの寿命はオーナーの思いやり次第です。

 しかーし!
 立て続けに壊れるということは、残念ながらある。「このクルマ最近よ〜来るなあ」というマーフィーの法則(古っ!)的なことは、確かにある。修理した次の日に、全く違うところが悪くなってまた修理、そしてまた次の修理・・・。最後には「そろそろ乗り換えかなあ」となる。そんなお客さんをたくさん見てきた。

 (よ)さんのLOGOちゃんが「修理の法則」にハマらないように願っております。

通な食べ方

 私の嫁は昔、マクドナルドで正社員として働いていたそうで、今でもよく
 「あの店員はアカン」とか
 「このドレス(ハンバーガーの積み重ねの技術)はヘタや」とか
 「このポテトは塩が多い」とか言う。

 そんな嫁のハンバーガーの食べ方は少し変わっている。ハンバーガーを逆さまにして食べるのだ。そうして食べると普通に食べるより味が良くわかるらしい。

 確かにハンバーガーを分解してみると、(基本的に)土台のパン、レタス、ハンバーグ、ソース、そしてフタとなる上のパンという構成になっている。そして上のパンはゴマが付いていたり焼き方に工夫がされていたりする。つまり逆さまにして食べた方が、味が付いているソース類や、ハンバーガーの顔とも言える上のパンが舌に近くなるので、より味わいやすくなるというのだ。

 それだけではない。ハンバーガーを作る工程は、(基本的には)上のパンを包み紙に逆さまに置き、ソース、ハンバーグ、レタス、そして土台のパンという逆さまの順序で作っていく。だから上のパンにソースや肉汁が染み込んでいて、比較的ハンバーガーの上段の方が味が濃いというわけだ。新メニューが発表される前に社員がテイスティングをするが、社員全員が逆さまにして一口か二口だけ食べるらしい。

 嫁が言うには、ハンバーガーを逆さまにして食べている人は「通」だそうだ。私はその「通」という言葉にやられて、「逆さま食べ」をやってみた。

 ・・・なんか食べにくくないか!?普通でええわ。

もうすぐ春ですねぇ

 3月もそろそろ終わり。通勤路にある桜もチラホラと咲き始めていて、春が近付いているんだなと感じさせる。

 桜だけではないけれども、植物、動物、虫など、自然界の生物はどこかにスイッチがついていて、誰かがONして回ってるんじゃないかと思うぐらい、毎年正確にこの時期になると活動を始める。毎日カレンダーを見ているはずの人間の中には、季節の変わり目について行けなくてカラダの調子を崩す人もいるのに。

 何か新しいことを始めたいなと思うのもこの時期の特徴だろう。

 私の周りにも自転車に乗り始める人がチラホラと現れ、その中に最近知人からロードを安く譲ってもらった人がいる。その人は私の仕事関係の業者さんで、1年ほど前にMTBを買ってから自転車の楽しみにハマってしまったのだ。そしてこの春、ロードデビューである。

 彼は当社に納品に来る度に私のロードを見て、「おぉ〜」とか「へぇ〜」とか言って穴が開くほど眺めている。もともとクルマの整備をやっていた人なので、私と同じく、値段や実用性の前に、メカニズムやスペックや製造過程や製品の歴史等に惚れてお金を使ってしまうタイプ。
 私を含め、これを読んでいるエンスーなみなさんは、
 「そんなもんに何十万もかけるなんて・・・!」という、一般人の常識から出る(すごく単純でそして正しい)この言葉を何度となく聞かされて来た。彼もこれから、奥さんや周りの一般人からこの言葉を聞かされることは間違いない。しかし、それにメゲずに頑張っていただきたい。

 春だからこそ、恋もしたくなるし気取りたくもなる。それはキャンディーズも言っていた。

 春だからこそ、デュラエースもオデッセイも薄型テレビも欲しくなる。それは私が勝手に言っている。

ある人のこと

 お客さん相手の仕事をしているといろんな人に接するので、ここに書くネタには事欠かない。今日もあるお客さんの事を書こうと思う。その人は私のブログのファンなので、これを読んでモニターに向かって赤面していると思われる。

 そのお客さんとは、私がメカニックになって少ししたぐらいからなので、もう10年近くのお付き合いになる。奥さんが、当時乗っていたガタガタのTODAYの修理を依頼されたのがきっかけである。その後ライフに乗り換えてもらい、今では家族ぐるみで仲良くしてもらっている。

 転勤になったり、職場を変えたり、職種を変えたりしても、連絡して来てくれて私を追っかけて来てくれるのである。私はお客さんという域を越えて、(誠に勝手ながら)すでに友達と思っている。

 そして昨日、旦那さんが仕事中に一人で来てくれた。

 旦那さんは私と同じで、「クルマ乗り換えたい病」にかかっている。しかしこれまた私と同じく、「クルマなんか買わへんで病」にかかっている奥さんが目を光らせているのである。

 旦那さんは当店に来るたびに、展示車やカタログを見て溜め息をつく。
 「はぁぁ〜。クルマ欲しいな〜」
 私もそれを聞いて、
 「欲しいですよね〜」
 そして2人そろって、
 「でも嫁ハンがなあ・・・」となるのだ。
 「Mさん、ウチの嫁ハン説得してくださいよ〜」と言われる。しかし自分の嫁を説得できないでいる私が、人の嫁さんを説得なんてできるだろうか。

 正直言って、このお客さんにはクルマを買っていただきたい。給料に「新車紹介手当」がつくからというわけではない。特別ボーナスが出るからというわけでもない。そんなモノ、ウチの会社には無い。でも昔から私を慕ってくれている人が買ってくれると、単純にうれしいじゃないか。自分の技術や人柄が他人に認められ、それがお客さんを引き留めることになっていると思うと、ウン。やっぱうれしい。

 ウチの嫁と同じでここの奥さんも、クルマのメカニズムやスペック、高度な技術で製造された過程などを説明しても意味が無いと思われる。私はメカニックなので、その辺から説明してしまうクセがあった。だから今回は違うやり方で説得してみる。うまくいったら自分の嫁にも試してみようと思う。

 「奥さ〜ん。最近キレイになりなしたよね〜。イヤホント、いつまでも若々しいですよ〜。その若さをさらに長く保つ秘訣は、やはり新車だと思うんですよね〜。キレイな人ほどキレイなクルマに乗っているもんですよ〜。今購入していただいたら、速水もこみちのオリジナルグッズがついてきますよ〜。福山雅治もありますよ〜。シャラポア特製付けチクビなんてのも・・・」

 私は営業マンには向いていない。

年の功

 今日、スズキの軽に乗ったおじいちゃんが来店して、「バンパーを当ててしまって外れかけているのでなんとかなりませんかいな」と言う。ホンダにスズキを持って来るぐらいなので、よほど切羽詰っているのか、トヨタ以外はみんな一緒という「昔の人間」の考え方なのか、どちらかだと思うがまあそんなことはどうでも良い。

 「どんな方法でもいいから」と言うので、私は適当に穴を開けて、適当にネジをつけて、適当にバンパーが外れないように処置。(注・・・ここで言う「適当」は「いいかげんに」という意味ではなく「適に当たる」という意味ですよ〜)

 するとおじいちゃんはエライ喜んでくれて、
 「やっぱり若い人はすごいなあ。われわれ歳よりは何やってももうアカンわ」と言う。私は、
 「いえいえいえ・・・」とか言いながらそのおじいちゃんを帰した。(注・・・「追い返した」ということではないですよ〜)

 その後少し考えた。

 われわれのような技術系の職業はどれだけ頑張って勉強しても、経験に勝るものはないと思う。やはり年数を重ねて得た経験が何事にも勝る技術なのだと。それは技術職だけではなく、人生の経験年数にも当てはまると思う。それを踏まえると、そのへんのおっさんが「若造のくせに」と言うのも、まあわからないでもない。

 今日のおじいちゃんは80歳ぐらいだと思うが、キッチリした身なりをしていて、言葉も特におかしくもない。きっと全盛期は仕事などでバリバリやっていた人だと思う。そんな人が私のような「若造」に向かって「すごいなあ」とか「年よりはもうアカンわ」と言えることは、実はスゴイことで、アカンことなんて何もないんじゃないかと思ったりする。

 私のような性格の人間は、きっと年をとったら「この若造が!」って言うジジイになると思う。自分が今までやって来たこととか、積み重ねて来たことなんかが「ワシは長生きしてきたんじゃい。いろんなことやってきたんじゃい。ワシはエライんじゃい」と言わせてしまうと思う。きっと若者に嫌われるガンコジジイになるだろう。

 今日のおじいちゃんは、おそらく私が経験したことの何倍もの出来事を経験し、いろんな出来事に揉まれて来たはずなのに、自分よりずっと年下の者に向かって「すごいなあ」と言った。なんて謙虚で腰が低くていい人なんだろう。

 私は少なからず「自分が一番エライ」と考えてしまう時がある。それ自体は嫌いではなんだけれども、そういう気持ちが時に他人に対してキツく当たってしまったり、短気になってしまったりすることがあり、そんな自分は大嫌いだ。だから、今日のような人に出会うと、「あんな人になりたいなあ、なれるかなあ」と思ってしまうのである。

 「若者」と「おっさん」の間にいる微妙な世代だからこそ思うことなんだろうか。(注・・・私はまだおっさんではありませんよ〜)

自転車療法

 最近は天気が微妙な日が多く、自転車に乗る機会が少なかった。そのせいかどうもカラダの調子が悪い。

 私は自転車に乗ると、肩コリがなくなったり、それから来る頭痛が治ったりするという体質の持ち主である(まあ運動をすると血行が良くなるので、こんな体質は私だけではないと思うが)。だから最近は、全身に不純物というか、コリというか、なんか重たいモノがずっと残っていたのだ。

 で、今日は久しぶりのオフ。しかも天気は快晴に近い。朝から近所を自転車で走り回った。

 大阪側に向けて山を上り、緑の文化園方面に走り、アイアイランドの中をぶらぶらし、阪奈道路を60km/hで下り、生駒市街地を抜けて、約1時間程で帰って来た。するとエライもんで、さっきまであった肩や背中のコリがなくなり、頭痛もきれいサッパリなくなっている。朝からバファリンのお世話になるよりずっと良い。

 ああ自転車ってスバラシイ、と思う瞬間である。

 クルマのスピードでは見つけられなかったお店や抜け道、歩くのにはちょっとツライ上りや距離、直接肌で感じる季節の変わり目や風の匂いなどなど・・・。自転車の良さを挙げるとキリがない。それら自転車の良さをわかっているからこそ、自転車好きは自転車に乗る。

 自転車に乗る理由はたくさんあるけれども、私が自転車に乗る大きな理由は、「ココロとカラダの調子が良くなる」からである。