長居競技場は小雨。どんよりと鉛色の空。屈強なランナーにとっては都合の良い天気らしいが、私のようなホビーランナーはやっぱり太陽の下で走りたかった。ともあれ言うても仕方ない。濡れていないところをみんなで探していそいそと着替えやら準備をする。
スタート前にトイレに行く。並んではいたが自転車イベントのようにどうしようもないということはない。スムーズに用を足してスタートラインに並ぶ。申し込みの際に申告した自己タイムによって並ばされる場所が違うようで、正直に「2時間」と書いた私は後ろの方。ゼッケン番号も6000番台である。
スタートを待つ間の雰囲気は和やか。自転車レースはみんなもっと目が三角である。今まで緊張していたがなんだか一気に安堵する。「今日は楽しもう」。そんな気分になった。しかしこの安堵が後にドエライことになる・・・・・。
そしてスタート。予想はしていたがやっぱり大渋滞。歩いたりする。ゲートをくぐって急にまたトイレに行きたくなったのでムリせずに近くにあったトイレに駆け込む。自分も含め、膀胱の容量が少ないランナーさんがたくさん並んでいたけど焦らず並ぶ。
用を足して外に出たらなんと白バイが待ってた。つまり最後尾である。公式時計を見ると1km地点で9分以上かかってた。まあでもイケるやろという気分で走り出す。この頃は集団のペースは落ち着いて、手元の時計は4分50秒/kmを表示している。「間違いない、イケるわ」と思った。コレが間違いだった・・・・・。
長居公園を出て公道に出る。出てすぐの6.3km地点に第1収容所がある。こんなとこで足切りされるはずも無いと思っていた。・・・・・がしかし!
「第1関門閉鎖まであと1分」という係員の声が・・・・。耳を疑った。周りのランナーからもどよめきが。悲鳴にも近い声に包まれながらダッシュ!目の前の関門に係員の手から遮断テープがするすると伸びてくる。ぎゃ~~~~!!!
なんとかクリア。まさかマラソンでインターバルがかかるとは思ってなかった。ともあれ気を取り直して走らないとこのままでは次の関門も危ないのではないだろうか。あんなとこでシッコ行ったのが間違いだった。自分の膀胱の小ささに悪態をつきながら走る。
しかしペースを上げてたくさんのランナーを縫うように走るのは意外と疲れる。思ったようにペースが上がらず結局集団内でヒラヒラしているだけ。そうこうしてるうちに第2関門が。
「関門閉鎖まであと1分!」
ヒエ~~~~。関門を突破するたびに自分の後ろには誰もいなくなる。恐怖。スタート時のほんわか雰囲気はドコへ行ったのだ。サバイバルである。思わぬインターバルのお陰でしんどい!
早くも腹が減ってきてハンガー気味になる。当然補給食なんか持っていない。給水所はあるけど食べ物は置いていない。「大阪ハーフナメてた・・・・」そんな気持ちが湧き上がる。
一番キツかったのは生野区役所前の第3関門。「関門閉鎖まであと30秒!」「20秒!」「10秒!」「9!」「8!」「7!」・・・・。カウントダウンすな!焦る!!隣の女性ランナーなんか半泣きである。「そんなゆっくり走ってないよ~~(涙)」。関東の方だろうか。標準語で独り言をつぶやいておられる。笑いかけたが自分も危ないことを思い出して全力疾走。
洞窟の出口が閉まる!後ろのガケが崩れる!必死のパッチで走る!走る!インディージョーンズかっ!
命からがら関門を突破すると沿道から物凄い歓声が。恥ずかしいわい!周りを見ると全力疾走を強いられしゃがみこんでいる人もいる。後ろを見ると関門をムリヤリくぐろうとして係員に止められている人もいる。私はマラソンで人生を悟った。
へろへろになりながら走る。収容バスに乗ることだけは避けなければいけない。しかし足が限界。これからインターバルの練習もしよう。そう心に誓ったが、まずはゴールに行くことだ。
鶴橋のあたりでゆっちアネキと軍曹アニキが応援してくれた。嬉しいなあ。涙ちょちょぎれるかと思ったが、泣いてる余裕もないぜ。走る走る。
森之宮で木馬メンバーが応援してくれた。嬉しいなあ。涙ちょちょぎれるかと思ったが、泣いてる余裕マッタクないぜ。走る走る。
大阪城公園に入っていつもの練習コースを走る。こんなキツかったっけなココ。
ヘロンヘロンでゴールしたら公式時計は2時間を40秒ほどオーバーしておった。
アカンやん!!
一応完走証は頂いたが、すぐに4つ折りにしてカバンに放り込んだ。ここで始めて涙がちょちょぎれた。
↑カッキーさん作。サイコーです。
自転車乗りがマラソンをする
本番まで後4日。最後の仕上げに21km走った。自宅から100円橋~毛馬~大阪城往復。だらだら走ってもしょうがないと思ったので自分なりに速めのペースで。
NIKE sportsbandにリアルタイム表示されるペースをちらちら見ながら、5’00″/km以下に落とさないように気を付ける。心拍計はつけてないけど、感覚的には160~170bpmぐらいだろか。清滝を14~15分ぐらいのペースで登ってるときみたいな感じ。
基本はローディーなので、ロードで走った山や出場したレースの時の苦しさが自分の中でものさしになってる。心肺的にはもう少し上げれると思うけど、脚がついてこなかったらヤバイのでこれぐらいのペースが今の自分にとってギリギリのところかしら。ハーフは言うても2時間以内である。2時間前後のレースで一番苦しいのは沖縄85km。あれに勝るモノは無いと思う。それに比べたらハーフマラソンなんかマシ、という気持ちで走り続ける。
集中して走り続けるが、途中で犬に追いかけられたり、見知らぬおじいさんに道を尋ねられたりする。別にイライラすることはないけど、本番ではこういうことが皆無だと思うので、トータル的にはもっとタイムは上がるのではないだろうかと勝手に想像している。
この日は7時すぎに目が覚めて、朝食は月見うどんを食べた。それから約2時間後に走り始めた。途中でお腹が空くということはなく、点在する水のみ場で少し水分を補給しながら走れば特に補給食とか要らなそう。本番では朝食からスタートまでもっと時間がかかるだろうから、ゼリー1本ぐらい持って行こうかな。
15km地点ぐらいでココロが折れそうになった。この辺りが一番苦しい。ペースも落ち気味。根性の見せ所である。ここで落とさなければ最後まで維持できると思う。
大阪城公園で、大阪国際女子マラソンの出場選手と思われる外国人選手がたくさん走っていた。前方から走り方の美しい小さい女性が近付いてきたなと思ったらなんとリディアシモンだった。シンジラレナイ速さ!多分調整されているのだと思うけど、それでもペース速すぎ!試しについて行ったろとも思わない。とにかくフォームの美しさが印象的。
マラソンと無縁だった自分がまさかのレースに出場だ。これは自分史上歴史に残ること間違いない。
「ちょっとランもやってみよかな~」と色気を出して初めて走った頃は自宅から実家まで2km走っただけで次の日立てないぐらい足が痛かった。それからだいぶ時間はかけたけど、ついに21kmを1時間43分で走れるまでになった。
自分自身の成長が手に取るようにわかる。これほど嬉しいことはない。
1500人もいるランナーの中に、自分ごときが一緒に並んでいいのだろうか。もちろん並ぶ権利は誰にでも平等にあるとは思うけど、畑違いの自分はいつもそんなことを考えている。胸を張ってみんなと肩を並べるには少しでも走れるようにならないといけない。
ようやくカタチにはなったのではないだろうか。もしかしたら、ゴールよりも、スタートの方が感動しちゃうかも。
王滝100km、ラン(汗)
先日高校バレー部の同窓会があって盛り上がった。盛り上がったから随分呑んでしまった。そんな中、後輩の中にトレイルランニングをやってるヤツがいた。「今度おんたけ100kmに挑戦しよと思てますねん」と言うから、酔った脳ミソを必死にシラフに戻して詳しく聞いてみたら、コレ。
“アノ”王滝100kmのコースをランで走る・・・・。そんなアホな・・・・。
MTBで2回走ったことのある経験から、「お前それは絶対ムリやで」と言うて聞かしたが、「イヤ、絶対出場します」と言い切るので、諦めてシラフモードから飲酒モードへ戻した。
しっかしあのゴツゴツした岩が転がってて、超が付くほど激坂で、ゴムのベロベロが等間隔に埋められてて、ブレーキパッドもフロントフォークも食料も底をつき、死ぬかと思ったアノ100kmの道のりを、2足歩行で走り切るクレイジーなレースがあるなんて全く知らなかった。MTBでもたいがいクレイジーだと思っていたが、上には上がいるもんだ。
『踊る阿呆に見る阿呆・・・』ではないが、クレイジーの渦中にいる人間はただ純粋に楽しんでいるだけだ。それを外野がクレージーだと評価するのはそれこそクレイジーなことなのかもしれない。自分も100万する自転車を欲しがっている。ハタから見れば十分クレイジーである。
まあそんなことがちょっとアタマから離れず、ガラにもなくトレイルシューズなんかを物色してしまったわけである。私も普通の人に比べたらボキャブラリーは広い方かなあと思っていたが、知らん世界はまだまだある。全部知る必要はもちろんないけど、自分のボキャブラリーの中で完結して物事を推し量ってしまう容量の少ない人間にはなりたくないなあと思った。
夜中の12時スタートで、制限時間20時間。夜8時ゴール・・・・。信じられん・・・・。
自転車の靴は高い
休日に特に用事を入れなければ、買い物に付き合わされたりスイミングの引率を命じられたりする。まあ普段家事育児をしてないのでこれぐらい屁ェでもない。
イオンに寄る。ヨメが妊娠中のウォーキング用にと運動靴を買った。なんと小学生御用達の「駿足」である。足の大きい子供もいるだろうからサイズはあると思うが、まさか大のオトナが駿足って・・・・しかも“ド”が付くほど派手なピンクやん・・・・。まあウキウキしておるから黙っておこう。
靴屋の店内をウロウロしていると、私のハートにビビっと来る靴を見つけた。コイツで山々を駆け巡りたい!デザインといい色といい、カネさえあったらすぐにでもセレブ買いをしていたところだが、ヨメの反対を押し切れずに諦めた。「これ以上趣味を増やすな」と言われたのでショボーンである。「20日30日は5%OFFやぞ」と言うのが精一杯。
帰宅してからもどうしても諦められず、トレイルシューズを検索しまくってようやく見つけたHPと上の画像。メレルってトコみたい。
しっかしPCの画像で見ると、あの時感じた「ビビッ!」と感がカナリ薄れているのは何故だろうか。現場ではごっさカッコよく見えたんやけどなあ。
13,650円か。高い。ビンボー人には高い。しかし自転車シューズは3万以上するのを履いている。自転車はカネがかかると改めて思った。
参加証来た
ついに大阪ハーフの参加証が届いた。家では酔うてることが多いので(笑)、会社に持ってきて仕事モードの時にじっくり読んでみた。じっくり読めば読むほど緊張する。
マラソンのレースに出ることが人生初なので、当日の雰囲気とか、本番はどれだけテンションが上がってしまうのか想像がつかない。今まで自転車レースに出場した経験から、おそらく序盤はオーバーペースで後半タレてしまうことは容易に考えられるが、ワタシも大人になった。そうならないように自分を操縦するつもりでいる。だから余計にスタート前の心境の想像がつかない。これだけ妄想好きでも。
とりあえずコースマップに記載された足切り関門の時間をスタートの時間から引き算して、そこまでどれぐらいのペースで走れば良いのかを計算してみた。すると、序盤は比較的ゆっくり(6分12秒/kmぐらい)でも関門には引っかからないが、後半にかけて厳しくなる(5分36秒/kmぐらい)という、典型的な『序盤テンション上がり型』のワタシにとって驚愕の事実が判明してしまった。
これは今までの私のキャラクターを改めなければ、ライバルの守口市民に勝つことはおろか完走さえ危ぶまれるということ。つまりこの大阪ハーフを満足のいく走りが出来た暁には、もしかしたら人生が変わるようなことになるかもしれないのだ。なんか自分に緊張してきた。
と、とりあえず当日は参加証を忘れないようにしよう。
雪の中を走る
某居酒屋で頂いた山崎12年が結構残り、朝はだらだらしてしまった。宗一郎を幼稚園に送り出し、嫁とこころは友達とランチに出かけた。くっそう、せっかく一人の自由時間なのに二日酔いで頭ガンガンなんてもったいない・・・・。
言うてもしゃーないので(自分のせいやから)、静かに嵐が過ぎ去るのを待ち、ようやく12時ごろに復活したので着替えてランニングへ郷!幼稚園バスが帰って来るのが14時なので、2時間たっぷり走れる。つまりハーフ走っても間に合うということ。これが自転車ならば大して遠いとこも行けないし「もう今日はええかな」となるところである。ドアを出た瞬間から運動が始まるランニングは素晴らしい。なんて効率の良いスポーツだ。
100円橋から毛馬方面に走る。母校である桜宮高校を河川敷から見下ろす。3階建てだった校舎は6階建てぐらいになってる。見下ろすというか見上げる。
毛馬の付近で横殴りの雪。走ってるからさぶいことはないけど、風に当たりすぎて頭痛くなってくる。まだ山崎残ってるのか?
「まもなく水門が開きます」というアナウンスが聞こえたので少し立ち止まって見ていたが、ダムの放水みたいなド迫力を想像してたらそうでもなかった。
大川沿いは淡々と。平日の昼間なのでランナーはほとんどいない。お年寄りがぶらぶら歩いてるのと、幼稚園の送り迎えのママチャリ、昼休みのサラリーマン。
大阪城公園には桜が咲いていた。思わず立ち止まって眺める。十月桜という種類らしい。
噴水広場まで行って帰って来る。大川沿いまで帰ってきて、足がちょっとしんどくなったのでストレッチ。雪も止んで少し暖かくなってきたから気持ちよくてついついゆっくりしすぎた。時計を見ると13時50分!慌ててペース上げる。4分10秒/kmぐらい。死ぬかと思った。
ちょうど幼稚園バスが帰ってきたところでグッドタイミング。周りのママさんからは完全に浮いた格好なので少々恥ずかしい。でも自転車衣装よりはマシかな。
宗一郎と一緒におやつして、ストレッチもそこそこに昼寝してしまった。お陰で筋肉痛。
自転車との付き合い
私が本格的に自転車に乗り始めた頃、やっぱり誰もが思うように少しでも速くなりたくて、清滝も登りまくったし、週に1回は100km以上走ってたし、他のチームの練習会にも出稽古みたいに参加させてもらったりしていた。
ちょうどその頃はブログが流行り出した頃で、全国の自転車乗りのブログに書かれた練習日誌を読んで良い刺激をもらったりした。このブログに貼っている自転車仲間ブログのリンク以外にも、お気に入りに登録してちょくちょく読ませて頂いているブログもたくさんある。
それから数年経ったのだけど、ここ最近、ブログの更新が全くされていなかったり、久しぶりに覗いたら自転車をやめておられたり、閉鎖されていたりすることが増えてきたような気がする。
人それぞれの事情もあるだろうから他人の私がとやかく言う筋合いは全くないが、アレだけ毎日早起きして乗りまくって練習しまくっておられたのにどうしたんやろ?と思うことがある。怪我とか病気とか家庭や仕事の事情とかならまだしも、単に飽きたとかモチベーション低下とかならちょっと寂しい。あんまり根詰めてやりすぎるとガス欠になるのだろうか。
かくいう私も昔に比べたらパンチの効いたレポートを書く機会が少なくなったが、それでもなんとか続けていられるのも、仕事や家庭や健康が、趣味に影響のない程度に変化なく平穏だからこそである。
自転車という趣味を続ける為に何かを犠牲にするようではいけないし、かといってダラダラしてて遅くなるのも嫌だし。
自転車ばっかりギンギンにイッたら他の糸が切れるので、仕事や家庭もギンギンにイッたら自転車もそれについてくるのではないだろうか、という仮定のもとに、4人目を視野に入れて頑張りたい。
親のエゴか
先日、私が生まれ育った生家の前を通ると知らん間に更地になっていた。知らん間にというか、空き家のまま20年もほったらかしになってたし、隣に住む大家さんも随分前に亡くなられたということで、いつかは取り壊さないといけないということは聞いていたけど、いつになるかは知らなかったのだ。
1階建ての木造長屋で、ビンボーを絵に描いたような狭い家だった。狭い家は更地になっても狭いと思った。あんなとこに4人も住んでいたのだからびっくりする。両親が離婚する中3まで住んでいて、それからは私が現在「実家」と呼んでいる家へオカンと弟と共に移り住んだ。
離婚してからまもなくオトンが病気で死に、それ以来は父方の親戚とは疎遠になっていたので、生家がどうなったのか知る由もなかったけど、私が結婚して子供ができたことをキッカケに付き合いが復活し、実は生家は空き家のまま家賃だけをオトンの弟さん、つまり叔父さんが払い続けてくれていたということを知った時にはとても嬉しかった。
2年ほど前の正月に、ヨメコドモを連れてその生家を訪れたことがある。驚いたのは、家財道具や遺影や仏壇だけでなく、水道もガスも電気もそのままで、すぐにでもそこに住めるように管理してくれていたことだった。子供の頃に書いた壁の落書きや、柱につけた背丈の傷、当時飼っていたウサギが齧ったタンスも置いてあった。そこへ大人になった自分が子供を連れてくるなんて、タイムスリップしたみたいで不思議な気分だった覚えがある。
「更地になってたで」と、そんな話しをオカンにしていたら、フト何かを思い出したように、「あれはどないしたんかなあ」と言った。
聞くと、純銀製のミニカーが20台ぐらいセットになった物だそうで、当時のビンボーな家庭が買えるような代物ではないほど高価だったと愚痴をこぼし始めた。「そんなもん買えるお金はない!」と言うオカンを無視してオトンがある日突然買ってきたのだと言う。それを聞いた時、私の幼い記憶の中に、ホクホクしてるオトンの顔と、半泣きでぶつぶつ言うてるオカンの顔が蘇った。そうやそうや。そんなことあったわ。
すぐに叔父さんへ電話し、あのミニカーのセットはどうなったのか聞いてみた。
「おお!あれか!あれはウチにあるで!お前のお父さんが死ぬ前に形見やと言うてオレにくれたんや!あれはお前がもらうべきや!取りにおいで!」と言ってくれた。
今まで家賃や公共料金まで払い続けてくれた上に、更地にする費用も出さず、家財道具整理の手伝いもしなかったので、非常に恐縮して電話したのだが、叱られるどころか「よう思い出して電話してくれたわ~」と喜んでくれたのだ。もうなんちゅうか胸が一杯になって涙がぼろぼろこぼれた。
欲するがままに無理して高価な物を買い、それを息子に受け継がせようとするなど、ただの親のエゴなのかもしれないが、火の車な我が家の家計から100万以上する自転車を買って「宗一郎に受け継がせる!」とアホなことを言っている自分にすっぽりと置き換えられるので、今になってオトンの気持ちが良くわかる。無念にも死ぬ前に息子に受け継がせられなかった気持ちもわかる。ふと純銀製のミニカーのことを思い出したオカンの気持ちも少しわかる。
というわけで、仕事帰りに叔父さんの家へ寄り、頂いて来た。
実際にはミニカーではなく、「偉大なる自動車100種」という、立派なアタッシュケースの中に並べられた純銀製のプレート100枚だった。当時ぶつぶつ言うてたくせに、男のロマンに対する女の記憶はテキトーなもんである。
自宅に置いていても子供らがぐちゃぐちゃにしてしまうと思ってオカンに預けてきた。昔を思い出して涙の一つでも流すのかと思っていたら、意外にもというかやっぱりというか、当時の腹立たしさが蘇って来たのかぶつぶつと言い出した。さらに、帰宅してからこの一件の話をヨメにしてみたら、これまた意外にもというかやっぱりというか、「ふ~ん」と一言で済まされた。
形見というものは、その品物が何であれ贈る側はものすごい思い入れを込めている。しかし、受け取る側はその思い入れを正しく受信できる確率は非常に低い。特に、贈る側と贈られる側の性別が変わると、その深さを伝えるのは至難の技である。もし私が本当にコルナゴを買う時が来たらそのへんは十分に注意したい。
ともあれ、正直言って純銀製のプレートなど私にとっては無用の長物ではあるが、その思い入れだけは普通に手渡されるよりも深く鮮明に伝わった。オトンの遺志は20年の時を経て、ようやく私に正しく受け継がれたのではないだろうかと考えている。
叔父さんのところに引っ越したオトンの遺影にもうすぐ3人目が生まれることを報告していたら、また涙がこぼれてきて恥ずかしかった。
新春六甲山アタック
皆様、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
年末年始前後3日づつ、計6日間の連休も今日でオワリとなりました。シアワセなことに、シラフの時間はトータルして数時間しかなかったんちゃうかというぐらい、呑んで食って遊んだ連休でした。今日は、明日から始まる現実に対応するために、静かに自宅で体力回復ということで、久しぶりにしっかりパソコンに向かってまったりと過ごしております。とは言いながら朝から焼酎をチビっと・・・・。
28日(月)仕事納め。仕事は例年通り早めに切り上げ、自宅で鉄板焼きを食べ、さあそろそろyoutubeでも徘徊しながらチビチビ呑むか~なんちゅうても明日から6連休やからな~ウケケと思った21時半ごろ、Kマタさんから木馬へお呼び出しの電話。しゃーないなあとニヤニヤしながら出掛けると、そこには完全に“出来上がった”Kマタさんとmanさんとかなもっちゃん。その流れで極悪会へ。かなもっちゃん潰れる。なかなかエキサイティングな連休の始まり。
29日(火)大掃除。網戸を洗った。部屋中の網戸は外して風呂場で一枚一枚洗う。コレめちゃ大変。一日でいっぺんにやろうというのがそもそも間違い。力尽きて床のワックスがけは後日することに。夜はジブンの実家でだらだらと呑む。
30日(水)河村家の餅つきにお呼ばれした。毎年お誘い頂きましてありがとうございます。餅をつきながらビィルを頂く。昼ごろまでだらだら呑んで、夕方まで昼寝。ジブンの実家でスーパーの寿司を食べる。
31日(木)床のワックスがけをする。しかしワックスをかける部屋の順番でヨメともめ、途中で投げ出す。ジブンの実家で昼寝して、そのまま実家で年越しソバ。
1日(金)あまりに運動していないので不安になって、朝からランニング12km。そのままヨメ実家に行き新年会。昼から呑んだら昼寝してしまうので起きたら夕方。そしてまたそのまま夕食会で呑む。呑んでばっかり。
2日(土)5時起床6時集合して、有志と共に新春六甲山アタック逆瀬川コース。天気は良かったがかなりさぶい。盤滝トンネル付近で-1℃。言うても京都のアニキたちのアタックに比べたらマシか。一軒茶屋には9時ごろ到着。初めて一軒茶屋でうどん食べた。下山が死ぬほどさぶい。昼からジブンの実家で新年会。これまた浴びるほど呑んでしまう。
3日(日)寝過ごしてシンケンジャーを見逃してしまう。今に至る。
概ね良い正月だった。体重は2kgぐらい増えた。はっきり言って起き上がるのも重い感じがする。このまま坂を登っても、ランニングしても、重さが速さの邪魔をするのは明らか。31日のハーフ本番までに減量必須。
↑極寒の一軒茶屋。こんなに晴れてる一軒茶屋は初めてかも。
2009年も終わり
2008年末の日記と、2009年始めの日記を読み直してみた。毎年のことだが大したことはやっていない。健康でいられたらそれで良い。
今年は年男だった。特に大きなケガや事故もなく、平穏無事に過ごせたので、それはそれで良かったと思っている。
来年3月にはいよいよ3人目が産まれる。正直言って妊娠が発覚したときは少々ブルーだったが、先日の検診で「女の子」とわかったとき、なんだか「3人の親になる」ということがリアルに感じられて、テンションが上がってきた。
「オトコは35から」
これからは本当の本当に、オトコの真価を問われることになるだろう。コルナゴ欲しいとかオキナワ行きたいとかブツブツ言わずに(言うけど)、自分は今何をやるべきか、何が一番大事なのか、ちゃんと見極めて、遊び呆けることのないように(呆けるけど)、気を引き締めてやっていきたい。
少し早いですが、今年も一年、M君の日記にお付き合い頂きましてありがとうございました。2010年も何卒宜しくお願いします。