僕と私

 以前から少し気になっていたことがある。それは文章を書く上で、自分のことを「僕」と書くか「私」と書くかということである。

 子供の頃に「なんでな〜おとなってな〜おとこやのにな〜『わたし』って言うの〜?」というような質問をしたことがある。「大人はみんなそう言うねん」と答えられた。「おとなってなんさい〜?」「20歳や」

 今思い出すと非常にめんどくさそうな返答だ。僕はこのことを何故かハッキリ覚えている。だから20歳になったら男性はみんな自分のことを「私」と言うもんだと思っていた。ところがみんなそんなことはしていない。当然僕もしていない。中には「私」と言う人がいるが僕と同じ年齢、世代には少数だ。

 まあムリにそう呼ぶことはしなくてもよいと思うので、これからも自分のことは「僕」と言う。きっと「私」を使いたくなる年齢、場所、シチュエーションが来るはずだ。それまで焦らないことにする。

 しかし、この日記のような文章を書くときに「僕」を使うのは少し抵抗が出てきた。やはり僕も「オトナ」になってきたということか。

 今まで書いてきた僕の文章に表記してある「僕」を「私」に変えて読んでみると(全部読み直したわけではないが)、少し「オトナ」な人が書いたような印象を受ける。支離滅裂で起承転結が無くオチが弱い文章であっても、あたかもそれが「計算の内」という感じさえする。

 よし、これからは自分のことを「僕」ではなく「私」と書くことにする。ヘタクソな文章に説得力を持たせようとか、下ネタ系の文に「私」を使うことによって出てくる「逆のおもしろさ」を狙うとか、シタゴコロがないわけではない。

 しかし「僕」を「私」に変えることによって自分の「オトナ」意識を高められるんじゃないだろうか。というわけで、これからも私をよろしくお願いします。

ツーリング

 いよいよ淡路島ツーリングが明日に迫ってきた。ロングツーリングは去年の琵琶湖・・・いや、沖縄以来だ。えらく昔のような気がするがそうでもないんだなあ。

 なんか沖縄の雰囲気っていい。また行きたいなあ、沖縄ツーリング。

 ホノルルマラソンを走ったことのある友人が言っていた。
 「あれだけの大人数で一斉に走っていると、頑張って一人や二人追い越してもまだ前には人、人、人・・・。少し気を抜いて一人や二人に追い越されてもやはり後ろにも人、人、人・・・。自分が少しぐらい頑張っても頑張らなくても現在の状況が大きく変わることなんてない。まるで人生のようだ。」

 沖縄ツーリングはそれに似ている。あれだけ自転車がズラ〜っと並んで走っている光景はアリの行列にも見えた。先頭も見えないし最後尾も見えない。自分がそんな行列の一部になっているということに、自分の非力さというか虚しさというか、「オレがいなくても行列なんだろうなあ」と思った。

 あのツーリングをもし一人で走っていたとしたら、そんなマイナス思考に飲み込まれてリタイヤしていたかもしれない。知らない人たちに囲まれて、延々と続くツライ上り坂を黙々と走り、その後に来る下り坂の気持ち良さを誰かと分かち合うこともできず、走り終わった後のオリオンビールと子豚の丸焼きの美味さを語り合うこともできない。僕のような人見知りには、「沖縄っていいですね」なんて知らない人に話しかけることなんてできないし。

 だから仲間と一緒に走ることは楽しい。その中でも速さとか体力の違いはあるけれども、休憩中やクルマでの移動中にワイワイガヤガヤと話しできるのがいい。それに沖縄で痛感したことだが、知らない人の後ろを走るのはとても恐い。体のデカイ外人がいたので風除けに使おうと思ったのだが、急にどんな動きをするかわからないのでピッタリ後ろにつけなかった(案の定僕のすぐ前で落車した)。

 目的や趣味が同じ仲間っていい。これからもいろんなところへツーリングに行くと思う。一人旅ってのも悪くないし実際にしたこともあるが、僕はやっぱりたくさんの仲間と行く方が好きだ。明日はみなさん事故の無いように楽しみましょう!

テレビが欲しい

 昨日のハナシの続きではないが、僕はどちらかというとビンボーな方の家庭に生まれ育った。

 家は平屋の2DKだったし、風呂がついてなかったので毎日家族で近くの銭湯に行った。リモコン付のテレビになったのは小6の頃だったし、ビデオデッキなんかは中学の頃。それもどこからかもらって来たモノや、型遅れのモデルを安く購入していたのだ。

 だから僕は、「最新型」と呼ばれるモノに縁がなかった。

 それがやはり現在に至ってもしっかり受け継がれているようで、家にある電化製品、ベビーグッズ、クルマなどはそれぞれ、以前から使っていた物、おさがり、モデルチェンジ前の安売り品となっている。

 今使っているテレビは、僕が一人暮らしをしているときの物で14型のテレビデオである。それが1台だけ。今のところそれで不自由しているわけではない。しかし、先日嫁の実家に行くと最新型の液晶テレビになっていた。義弟の家も薄型液晶になっていた。今や石を投げたら薄型テレビを持っているやつに当たるというぐらい普及している。

 見栄を張るつもりはない。テレビの薄さやデカさがその家庭の生活レベルというわけでもない。今あわてて購入に踏み切っても、その後にさらに安くて性能の良いモデルが登場するかもしれない。

 だがしかし!それらの考え方が、僕と「最新型」とを遠ざける原因になっていたのだ!
 そうだ!そうだったんだ!!

 テレビの薄さデカさ(この際、数も含む)は見栄以外の何者でもない。生活レベルの高い者が良いテレビを使っているのだ。「もうちょっとしたらええの出てくる」って、いつやねん!教えてくれ!

 確かに「最新型」は明日「旧型」になるかもしれない。しかしそんなことはどうでもよいのだ。欲しいときに欲しいものを買う。それが「最新型」と出会う正しいやり方だ!

 よっしゃぁぁ〜!テレビ買うぞおぉぉぉ〜!!

金持ち

 ブームってその時代時代でいろいろと出てくるもので、現在は「韓国ブーム」、「お笑いブーム」、「手品ブーム」、「雑学ブーム」などがあるだろうか。「金持ちブーム」っていうのがあるかどうかは知らないが、「セレブ」なんて言葉を良く耳にする。

 テレビでいろんな分野で儲けた人たちの豪邸を案内したりとか生活レベルの違いを紹介する番組をよくやっている。何百坪もの敷地に何十もの部屋がある豪邸だったり、1億円以上するクルマに乗っていたり、われわれシロートが見ても高価だとわかる絵画や宝石など・・・。僕ら庶民にはうらやましい限りでポカーンと口を開けて見ていることが多い。

 そんな番組とは正反対に、貧乏な人たちの生活を紹介するのものもある。それもまた口をポカーンと開けて見てしまうほどヒサンなものがあるが、ビンボーというものをおもしろおかしく紹介しているので、なかなかビンボーも悪くないなと思わせるときもある。

 それぞれの番組がいい視聴率を上げているのは、われわれのような庶民が大半を占めているからだろう。金持ちでもなく、かと言ってあれほどビンボーでもない。「やっぱ普通がイチバンやな」と、庶民たちは自分が今庶民であることをテレビを見て自認する。

 テレビで紹介される大金持ちさんたちの中には、若い頃やはりテレビで紹介されるビンボーさんたちのような生活を経験していた人がいて、そんな人は「明日食べるメシがない」というような逆境に負けじとガンバってきた人たちだと思う(そうであってほしい)。

 だからテレビのビンボーさんがいつの日か大金持ちになるという可能性は、実は僕ら庶民より大きいかもしれない。反対に大金持ちさんがビンボーさんになってしまう可能性もしかり。

 そもそも「金持ち」や「貧乏」なんていうランクは、大抵自分を基準にしているわけで、金持ちの中にも「ビンボーだ」と思っている人はいるだろうし、ビンボーな人も心が満たされていればそれもよし。他人が人の生活レベルをどうこう言う資格はない。

 「どちらかになれ」と言われたら僕は(少し悩んでから)ビンボーを選ぶだろう。500円の図書券をもらったときのヨロコビを忘れたくないからだ。今月も小遣いは図書券になりそうだし・・・。

かなしいとき

 かなしいときー。   パパとママがケンカしているときー。

 かなしいときー。   どうやってもひだりがわにねがえりできないときー。

 かなしいときー。   ないているのにだれもあいてしてくれないときー。

 かなしいときー。   しんせきのひとたちにダッコのたらいまわしをされるときー。

 かなしいときー。   パパがうまそうにのんでるビールをくれないときー。

 かなしいときー。   ママのおっぱいがでなくなってきたときー。

 かなしいときー。   ママがたべてるおかしをくれないときー。

 かなしいときー。   おふろがあついときー。

 かなしいときー。   りにゅうしょくがマズいときー。

 かなしいときー。   よなかにぼくだけめがさめたときー。

 かなしいときー。   おむつをかえてほしくてないているのにムリヤリおっぱいをのまされるときー。

 かなしいときー。   うんちがでないからといっておしりにめんぼうをさされるときー。

 かなしいときー。   いみもわからないのにみやざわけんじやビートルズをきかされるときー。

 かなしいときー。   たかいたかいのやられすぎでもどしてしまうときー。

 かなしいときー。   やっぱりパパとママがケンカしているときー。

淡路島

 もうすぐ回転木馬イベントの「淡路島1周ツーリング」がある。個人的には「琵琶湖1周」より「淡路島1周」の方が好きだ。

 僕と淡路島の関係はとても深い。モノゴコロついた頃から月に2回は魚釣りなどで連れて行かれた。当時は明石海峡大橋などなかったので、淡路島に渡るためには必ず船を利用した。

 船はいい。飛行機よりも船の方がなんかワクワクしてくる。船に乗ると海で世界がつながっているのを実感できる。水平線を見ながら「この海の向こうには自分の知らない世界があって、知らない人たちが生活しているんだろうな。そしてその人たちもこっちを見て同じことを考えていたらおもしろいな」と子供心にそう思ったものだ。

 明石海峡大橋が完成し、サッカーW杯でイングランドチームがやって来た頃から淡路島は様変わりしていったように思う。あの田舎臭いような感じがなくなってしまった。橋の麓にスーパー銭湯ができ、イングランドの丘ができ、たくさんあった船着場は少なくなり、発電用の風車が建ち、活断層の記念館ができ、そこらじゅうに転がり浮かんでいたタマネギがなくなり、めちゃくちゃたくさんいたフナムシがいなくなった。

 子供の頃よく泊まっていたあの旅館のおばあちゃんは僕のことを覚えているだろうか。放し飼いの犬に追いかけられた砂浜はまだあるのだろうか。テトラポットの隙間で秘密基地を作った。キャンプ場で花火をした。

 大人になってからもよく行く。何周したか数え切れないし、誰と行ったかなんてあんまり憶えていない。だけどそんなことはどうでもよく、そこに淡路島があり、ここに僕の思い出がある。それだけでいい。

楽器

 僕は楽器が好きだ。

 何が好きって、あの佇まいがとても良い。楽器屋さんに置いてある楽器たちは、「どーや。俺たちかっこええやろ」、「弾けないヤツはアタシに触れるんじゃないよ」とでも言っているようだ。ピカピカに磨かれたトランペットやサックス、鍵盤を触ると予想以上に大きな音を出すピアノ、果てしなく深いんじゃないかと思わせる穴が開いているギターなど、様々な種類の楽器はそれぞれのオーラを醸し出しながら静かに貰い手を待っているように感じる。

 そんなヤツらを使いこなしたくていろんな楽器を練習した。ギター、ベース、ドラム、ピアノ・・・。最近は三線まで手に入れた。中でも一番頑張って練習したのはやはりピアノだろう。他の楽器はほとんど独学で(だいたいは)弾けるようになったけれど、ピアノだけはどうもうまくいかない。どれだけやってもシロートの域を出ない。だから初めて「習いに行く」ことにした。

 週に1回、4年ほど続いただろうか。3歳ぐらいから何十年も続けているプロから見れば全く大した事の無い年数だが、それでもやはり独学と人に習うのとでは上達のスピードが全然違う。発表会にも出たし、友達の披露宴、自分の披露宴でも演奏した。たくさんの人前で弾くことが結構好きだった。

 ピアノの先生に教わったことの中で印象に残っている言葉がある。

 「音符と音符の間の何も音が無い所も音楽である」

 これを教わってからすごく楽になったような気がした。「そやな。音楽って楽譜どおりに弾くことだけじゃないよな」 楽譜という音楽の設計図どおりに弾くことに必死になって「音を楽しむ」ということを忘れていた。

 その後の発表会で僕は、ベートーベンの『月光 第1楽章』を演奏した。発表会ではあまり人気のない暗くて遅くて長い曲だ。音符と音符の「間」がとても大切な曲。先生が「やめといたら?」と言った曲。緊張すると指の震えがよくわかる曲。

 僕はこの曲が大好き。本当に月光を思い出させるあのゆっくりとした雰囲気がとても良い。夜に部屋の明かりを消して弾くとトリハダものである。鍵盤のタッチがソフトなので階下の住人に迷惑をかけないのもいい。

 そして何より、エラソーにでーんと座っていたあのピアノさんを「弾いてる!」って感じになる。

 お高くとまっているオンナをイテこました時の気分に良く似ている。・・・きっと、たぶん。

過剰知識

 1万円以下のものを買うときはそうでもないが、10万円以上するものを購入するときはある程度の予備知識をつける。チラシを集めたり人に聞いたりして、自分の求める性能と値段が一致するかどうか十分検討してから販売店に行く。そしてお店のスタッフに教えてもらったり現物を見たりして購入に至る。それはみんながやる普通のことだと思う。

 最近はインターネットが大変普及しているので、ネット環境さえあれば欲しい商品のことは何でも調べることができる。さらにそれを実際に使っている先輩ユーザーのアドバイスや経験談も聞くことができ、モノを手にすることなく所有しているような気分にもなれる。

 クルマなんていう100万200万以上するものを買うときは特に調べるのであろう、ウチに来店されるお客さんの中には僕たちより詳しく知っている人がいて驚かされることがある。

 まあ全く知らないよりはいいとは思うが、過剰な知識をひけらかして買いに来るというのも考えものだ。

 エリシオンを見に来て初めに言う言葉が「エリシオンってスライドドアのリコール出てるんやろ?」である。そんなことが購入する際の参考になるのだろうか。「だからなんやねん」と言いたい。今から注文してアナタの手元に届くエリシオンは確実に改善済みになっている。もしかしたらお店の人間にナメられないようにと思っているのだろうか。

 クルマに無知だからといってバカにしたりナメたりすることなんて絶対にない。「クルマのこと何も知らないんです」とハッキリ言われた方がこちらも説明がしやすい。どこのサイトで調べるのか知らないが、「純正のテレビはこの配線をこうすれば走行中映るようにできる」とか「こういう症状の時はここをこうすれば直る」など、われわれが時間をかけて診断し判明させた血と汗と涙の結晶を、あたかも自分が見つけたように言う。「もっと安くできへんの?」「簡単に直るんやろ?」などと。

 確かにインターネットで情報を検索することはとても便利だ。誰でも何でもどんなことでもすぐに調べることができる。僕もよく利用する。だけど「アタマでわかった気になる」のと「実際に見て聞いて触ってわかる」のとでは雲泥の差がある。

 エロビデオでAV男優がやっていることを自分の彼女にムリヤリ強要して嫌われるよりも、「何もわからないから教えて〜」と言った方が気持ちいい思いをすることができるのと同じだ。・・・きっと、たぶん。

宮沢賢治

 最近のマイブームは宮沢賢治を読むこと。

 以前、タカラヅカオタクの友達に『イーハトーブ 夢』のビデオを借りた。宮沢賢治の生涯と『銀河鉄道の夜』が交叉する、なかなかおもしろい舞台だった。それ以来、「宮沢賢治読みたいなあ」と思っていたのである。

 そんな中、先日本屋で『銀河鉄道の夜』を見つけた。しかし僕の興味をそそったのは普通の文庫本の方ではなく、今流行り(かどうかは知らないが)の「音読本」というやつだった。

 手に取ったその本はふりがなまで振ってある大きな文字で書いてあり、しかも『銀河鉄道の夜』だけでなく、『イーハトーブ 夢』で夢輝のあ が読んだ『雨ニモマケズ』、そして『セロ弾きのゴーシュ』、その他数本の代表作が収録されていた(『注文の多い料理店』がないのが残念だが)。

 その本によると声を出して読むことは脳に刺激を与えるとのこと。とにかくよくわからないがアタマがよくなるらしい。嫁が宗一郎にこれを読み聞かせてやれば、2人いっぺんにアタマがよくなるのではないだろうか。そんな期待をしているのだが、その本に挟んであるしおりがなかなか先へ進んで行かない。

長く続けるコツ

 現在の仕事に就く前に転職の経験が数回ある。

 退職の理由なんて人それぞれいろんなパターンがあるだろうが、僕はほとんどの場合、会社のやり方(つまり社長のやり方)に疑問を感じて辞めるパターンだった。

 僕ならこうするだろう、なんで社長はこんなことするんだろう、こうやればもっといいのに、とイライラする毎日を送り、誰に相談しても的確な回答をしてくれる人なんていなくて、結局はそのストレスを全て自分が抱え込む。そしてとうとう退職の決意をする。

 退職するときは、自分が選んだこの選択はとても正しくて、これ以外に自分が救われる道は無いと本気で思う。「考えなおしたら?」と言われてももう遅い。「この会社は近いうちにツブれる!」「あの社長じゃダメだ!」と熱く語ってもみんな聞く耳を持ってくれなかったじゃないか。悪いけど後のことは知らないよ、と退職するのである。

 ところが僕が辞めた後もその会社は正常に機能しており、特にツブれるような気配はない。あのときの僕の信念は何だったんだろうか。あの社長ではダメだったんじゃなかったっけ。もしかしたら僕が辞めてからココロを入れ替えやがったのか。どうもそうでもないようだ。自分が辞めたところで何も変わらない会社を見ると少し悲しくなったりする。

 僕が一つの会社で働いた最長期間は約6年だ。その会社を辞める時も上記のような心境の変化があった。いままで続けてこれたのになぜこんな気持ちになってしまうのか本当に悩んだ。悩んで悩んで退職し、悩んで悩んで選んだ次の会社も結局同じような理由で退職するのである。

 一つの仕事を一つの会社で10年20年、もっと長く続けている人がたくさんいる。なぜそんなことができるのか未だによくわからない。今まで会社に対して不満を持つことってなかったんだろうか。やはり少なからず不満を持ちながらやっているんだろうか。こんな会社で楽しいんだろうか。何の為に仕事をしているんだろうか。自分は働くことに向いていないんじゃないだろうか。家庭を持って、子供を育てるっていう義務が発生したらその考え方は変わるのだろうか。今までは「自分の為に」と言って働いていたけど、「子供の為に」って気になれば続けられるのだろうか。しかし独身でも長くやっている人もいるじゃないか。

 「長く続けるコツは一生懸命やらないこと」って誰かが言ってた。それが本当だとすれば、少し残念だ。

 僕は子供がいるので、今の会社をすぐに辞めるわけにはいかない。少々嫌なことがあってもガマンし続けなければならない。だからって仕事を一生懸命やらないってのはなんか違う気がする。

 今のところ会社に不満があるわけではないのでいいのだが、そんなことを考えてしまうこともある。なぜ長く続けることができないんだろう。今の会社も長くないのか・・・。

 多分僕がワガママだからだろうな。3大欠点の2つ目である。