日々成長

 息子の動きがさらに早く、力強くなってきた。私のお腹の上に立たせ、ぴょんぴょんと飛び跳ねる遊びが好きなのだが、最近はそんなことをやるとさっき食べた夕飯がリバースして来そうになるぐらい、足のチカラが強くなった。

 1日ごとに(1時間ごとにと言った方が適切かもしれない)成長し、新しいことを覚えていくその様を間近で見ていると、毎日同じ事を繰り返し、何の新鮮さも無い日々を送っていることが、非常にむなしく、そして勿体無いことのように感じる。息子に与えられた24時間と、私に与えられた24時間とは全く同じ長さなのに、私より彼の方がはるかに有効利用している。


 そんな中、今日ウチの会社が新装オープンした。今までは平屋でショールームと事務所が同じフロアにあってなんか雑然としていたが、2階建てになり、吹き抜けが作られ、1階は完全にショールームとなり、「モータース屋」がやっと「カーディーラー」になった感じがする。

 私も含めて社員全員、なんか浮き足立っていて、いろんな業者から送られて来るお祝いの花輪が並んでいるのを見て、心機一転の気持ちで一杯になっている(ハズ)。

 当店は今年32歳の私が最年少という、平均年齢が奈良のホンダの中で一番高いんではないかと思うぐらい(いや実際そうかもしれない)の高齢メンバーで、やはりこの辺りも「モータース屋」というイメージが払拭出来ない原因のひとつになっていた。それがエライもんで、今までただのおっさんやおばはんだった社員が、きれいなショールームの受付のデスクに座っているだけで、少し(そう、あくまで少し)若返ったような気がする。

 これからウチの店はもっともっと成長していかないといけない。今回の改装で多くの借金を背負ったみたいだし、私も守るべきものが出来たのでそう簡単に倒産させるわけにもいかない。

 私も息子を見習って、日々成長したい。まだ壁紙の接着剤の匂いが残るショールームでそんな事を考えるのである。

悲しきMTB

 また自転車のハナシ。

 最近MTBに乗る機会が激減した。普段はほとんど通勤で乗るので、自宅にはロード1台だけがあり、MTBは実家でホコリをかぶっている。まあ、移動に使う道路の全ては舗装されたものしかないので必然とも言える。舗装路ではどう考えてもロードの方が速い。いくらMTBに細いタイヤをつけようと、いくら軽量化しようと、舗装路を走るのにはロードが一番適している。

 MTBに乗る機会が無いわけではない。回転木馬はしょっちゅうMTBイベントを計画してくれるし、自宅から少し足を伸ばせば、ダート路なんていくらでもある。しかしなんか乗る気が起こらないのだ。

 私はきっと、スピードに魅せられたのだろう。
 「自転車に乗っていて一番楽しい時は?」と質問されると、
 「スピードを出している時」と答えると思う。

 下り坂を自転車ではありえない程のスピードで走っている時のあの緊張感がたまらない。MTBのダウンヒルとは少し違う。苦しい坂を自分の足で上り、貯めに貯めた位置エネルギーという貯金を一気に使い果たすあの快感は何物にも換え難い。

 昨日仕事の帰りに、阪奈道路の長い下り坂を、トラックの後ろでドラフティングしながら80km/h近くを記録した時には思わず歓喜の声が出た。これが「ライダーズ・ハイ」というものなのだろうか。

 MTBで山の中に入り、きれいな空気を吸い、「やっぱり自然はいいね」なんて話をするのもすばらしいことだ。だけど私は、ディーゼル煙にまみれた都会の汚い空気を大きく吸い込み、その中から数少ない酸素分子を取り込んで、スピードに変換することに楽しみを見出してしまった。

 そんな自転車の楽しみ方をしているヤツもいるのだ。

ダイエット大作戦

 私がメッセンジャーをしていた頃、つまり「最速」の名を欲しいままにしていた頃、体重は63キロであった。177センチの身長にその体重だから、少しヤセ気味だったかもしれない。

 その後結婚し、会社の近くに引越し、出産だの何だので自転車に乗る機会が減った。帰宅してからは毎日缶ビールを2本程飲み、食事は3食共、規則正しく食べる。あれよあれよという間に太り、70キロ近くになってしまった。

 それからである。私が「遅く」なってしまったのは・・・。

 今までスイスイと上っていた清滝峠も中腹あたりで息が上がり、ハンドルを引いていた腕にチカラがなくなり自転車がフラフラする。ダウンチューブのボトルに手を伸ばすことさえ困難になり、乾いたカラダがますます体力を奪っていく。全然気にならなかったヘルメットのストラップが、まるで私の首を締め付けているような感覚になる。

 それだけならまだ良い。「最速」の者が「最速」でなくなる時、とてつもない精神的苦痛を伴う。以前は私の前など走ったことのない人が、私に背中を見せ付けている。「ああ(ハアハア)、この人のウェア(ハアハア)、後ろはこんな(ハアハア)、デザインだったのか〜」などと感心している場合ではない。

 「今日は体調悪いの?」
 「もしかして体力落ちた?」
 「あれっ。27Tついてるやん」
 「M君、遅なったなあ・・・」

 常に日本のロック界をリードする「最高」の存在といえばやはりB’zである。彼らは「最高」の名に相応しい態度や身なりや発言をし、「最高」の名に恥じないパフォーマンスを我々に提供してくれる。しかし影では、常に「最高」を維持し続ける為に「最高」の努力をしている筈である。それは言い換えれば、「最高」から転落することを誰よりも恐れている、ということにならないだろうか。

 私が「最速」から転げ落ちた時、相当のショックを受けた。あまりのショックに白髪が増えた。これを読んでいただいている私の自転車仲間のみなさん、そんな私の精神状態を理解してくれてますか!?好き勝手言っちゃってくれて!

 いやいや、そんな八つ当たりをしている場合ではない。私は「最速」であり続ける為の努力を怠っていた。私はB’zのようにならなければいけない。B’zに憧れて楽器を始める若者がいるように、私に憧れて自転車に乗り始める若者もいる筈だ。体力の低下と共に、「最速」への執着心までも失ってしまったようである。速く走るだけが自転車の乗り方ではない、と自分に言い訳していた。

 今更、「清滝最速になります」とか「勝負したいヤツはいつでもかかって来い」とか「オレの前を走るヤツはみんなパンクさしたる」とかコドモみたいなことは言わない。私もいいオトナである。だがしかし、もう少しの間、「速く走る」ということにこだわってみたい。

 「速く走る」。それが私と自転車とを結びつけるキーワードなんだ。それがあったからこそメッセンジャーをやっていけたんだろうと思うし、ある意味その気持ちがなかったら、今の自転車友達との出会いはなかったかもしれないのだ。

 とりあえず、63キロに戻します。

かわいさあまって

 どんな親でも「自分の子はかわいい」と言うが、それは顔が自分に似ているからだと思われる。だから私も、私が子供の頃と同じ顔をしている息子は誰よりもかわいいと思っている。

 私の親戚がたくさん集まる場に連れて行っても、「パパの小さい頃にそっくりやなあ」と言われる。当然私もそう思うのでニコニコしながら聞いている。

 ところが不思議なことに嫁の親戚に見せると、「ママの小さい頃にそっくりやなあ」と言われるのだ。

 嫁がまだ子供の頃の写真を見たことがある。嫁を悪く言うつもりはない。そして自分をホメるつもりでもない。しかしどう見ても私の子供の頃の方がかわいく、そして息子は絶対に私に似ていると思うのである。

 嫁の子供の頃の写真は、目が小さくそしてタレていて、どの写真を見ても口がポカーンと開いている。ポーズといえばキョウツケばっかり。なんとも芸が無く、田舎の子供っぽくてアカ抜けた感じが全く無い。

 その点、私なんかは目がクリクリっとしていて、笑顔の写真ばかり。ピースしたりシェーしたり、もうかわいいのなんのって、幼稚園の先生に結婚を申し込まれたぐらいのかわいさだったのだ。

 親バカ発言として聞いてもらって構わないが、息子を連れて買い物に行くと必ず、「かわいいねえ」とか「男前になるわ〜」と知らない人に声をかけられる。つまり第3者から客観的に見ても、私の息子はかわいいということになる。

 そんな誰もが認めるかわいさを持つ息子が、嫁に似ているなんてことはありえないのである。笑顔なんて私にそっくりなのに、それが嫁に似ているだと!?

 嫁側の親戚は全員、目が悪いと思われる。あっ、それとも私の子供の頃の写真を見たことがないからそう思うのか?比較する対象が嫁の子供の頃の情報しかないからそう言うのか?もしかしたらホントは私に似ていることは認めているが、嫁に気を遣ってそう言っているだけなのか?

 いずれにせよ息子がもう少し大きくなってきたら答えは出る。それを見て嫁側の親戚一同言うであろう。「・・・やっぱりパパに似てかわいいやん」と。


 そんなある日、テレビにボーっと気を取られている息子の顔を見てみると・・・。
 「お・・・おいっ!お前ママと同じ顔してるやないか!コラッ!やめんかいその顔は!」

 私の遺伝子だけではないのが証明されました。

過保護と無保護のあいだ

 息子がテーブルの縁を持って立ち上がったり、目にしたモノをとにかく手に取って口に入れたりするようになった。ハイハイの速度も上がり、少しでも目を離すと「うおっ!そんなトコにおったんかい!」と、踏ん付けそうになることもある。しかしまだバランスが悪く、立ち上がってもそのまま後ろに倒れて後頭部を打ったり、ヒザのチカラが急に抜けてテーブルの縁でアゴを打ち付けたりしている。

 始めの頃は、ひっくり返って子供が大声で泣いたりすると、親はあわてふためきオロオロしていたが、最近はもうそんなことにも慣れてしまった。子供の行動範囲には一応クッションとなるようなモノを敷いてあるし、大声で泣いていても抱き上げるとすぐに泣き止んだりする。いちいちアタフタしていてはこっちの神経がもたない。

 今日もこんなことがあった。ペットボトルが好きなので、カラになったもので遊ばせていた。しばらく子供は機嫌良く座りながら手に取って眺めたり振ったりしていたのだが、そのうちフタの部分を口でくわえ始めた。「あ〜これはもしかしたら・・・」と思った途端に、ペットボトルのフタ部分が子供の口に「カポッ」とハマり、取れなくなってしまったのだ。

 「アウアウ」とも「オエオエ」ともつかない声を出しながら涙を流している子供を見て、私はその光景が面白くて、すぐに助けずに少し見入ってしまった。ペットボトルを取ってあげると、下の歯茎から少し血が出ていた。

 かわいそうなことをしたなあ、という気持ちはある。だけどあぶないからと言って今後ペットボトルで遊ばせない、というのは違うと思う。

 確かに親は子供の命を預かっている。親の不注意で子供をケガさせた、場合によっては殺した、といったようなハナシは後を絶たない。しかしそれは最低限のことを管理していないからで、親の怠慢以外の何者でもない。子供をクルマに残して買い物をする、なんてことはもってのほかである。

 子供は成長するにしたがって、行動範囲や視界や興味が広がるのは当然のことだ。それに伴うケガや事故はある意味仕方が無い。親が子供にしてあげられることは「命を守ってやる」ということではなく、「命が長く続くように工夫してやる」ということではないだろうか。

 ペットボトルを取り上げて遊びの数を限定するのではなく、広口ペットボトルを与えて口にハマらないようにしてあげるのが正しいやり方だと思うが、みなさんはどうでしょうか?

修理の法則

 (よ)さんがLOGOちゃんの修理で来店された。ドライブシャフトブーツの交換という作業で、左右交換して約2時間弱ぐらいの作業なのだが、(よ)さんはずっと私の横でLOGOちゃんのオペの様子を見守っていた。彼は自分の愛車がリフトで高々と上げられると、その下に入りしげしげと眺めている。その目が子供の目と全く同じなのでオモシロイ。

 ところで最近(よ)さんのLOGOを触る機会が多い。

 何かの研修の時に、「お客様がディーラーに来店されるのは年に約1.4回」というのを聞いたことがある。だからその少ない機会を大切にしてお客様を満足させないといけないよ、という内容だったと思う。確かにガソリンスタンドやカーショップなどに比べるとディーラーはかなり不利である。

 そう考えると(よ)さんのLOGOは結構多い来店回数となり、つまりそれは「最近よく壊れる」ということなのか。いやいやそうではない。点検したり部品を取り付けしたりする時も、1回の来店の内に入るので、「よく壊れる」ということではもちろんない。

 だから(よ)さん、安心して下さい。決してLOGOちゃんの寿命が近づいているということではなく、(よ)さんがLOGOちゃんのことを大切に思うから来店回数が増えるのです。前にも言いましたが、クルマの寿命はオーナーの思いやり次第です。

 しかーし!
 立て続けに壊れるということは、残念ながらある。「このクルマ最近よ〜来るなあ」というマーフィーの法則(古っ!)的なことは、確かにある。修理した次の日に、全く違うところが悪くなってまた修理、そしてまた次の修理・・・。最後には「そろそろ乗り換えかなあ」となる。そんなお客さんをたくさん見てきた。

 (よ)さんのLOGOちゃんが「修理の法則」にハマらないように願っております。