タカラヅカ歌劇を観ていると、時代や場面は違っても、ほとんどが男と女の恋物語であり、最後にはどちらか、もしくは両方が死んでしまうことに気付く。今非常に話題になっている『ベルサイユのばら』でも、オスカル、アンドレ、マリーアントワネット、みーんな死ぬ。愛し合った2人は必ず「死」という形で別れを迎える。
こんなに愛し合ってるのになんで最後に死なすかなー。ハッピーエンドにしたらんかい。
だけど「愛する」ということは「死ぬ」ことも受け入れないといけないのかな、とも思う。
死別することによって本当の愛を確認するというか、逆に言うと生きている間は本当の愛に気付くことなんてないのかなと。もっと言うと、その人が死んだ時のことをリアルに想像できる人が「愛する人」なのかなと。
私も一応、愛する対象の人が数人いるけど、「この人がもし死んだら・・・」とリアルに想像できるのは今のところ息子だけである。
いや、もちろん嫁もオカンも嫁の両親も親友もみんな、愛してることは愛してるのだけども、死んだ時のことなどなかなか想像出来ない。だけど息子に関しては、海で溺れたり、高い所から落ちたり、クルマに轢かれたり、火事で焼け死んだり、病気で死んだり、誰かに殺されたり・・・と、死ぬネタに尽きることは無い。
息子がまだまだ人の助けが無いと生きていけない年齢だからそう思うだけなのかもしれないけど、夜中にフト目が覚めて「ちゃんと息してるかな?」「心臓動いてるかな?」と、生死を確認することが冗談で無く本当にある。
息子が死んでしまうめちゃくちゃリアルな夢を良く見る。あってはならないその時のことを想像すると眠れなくなってしまうこともある。
まあ別に「人を愛するということ」について深く考えているわけではない。的確な答えが必要なわけでもない。なんだかそんなことを思っただけ。