ヨメのお父さんは食品会社の重役さんで、仕事の関係で全国のウマいもんを食べまくって呑みまくっている。だから我々がヨメ実家へ食事しに行ったりした時は、例えば焼肉をしてもエエ肉を焼いてくれるし、寿司を注文してもエエ寿司を取ってくれるし、穴場のエエ焼鳥屋に連れてってくたりする。焼酎はなんかわからんけどエエ焼酎をくれたりする。ビンボー育ちの私は食べたことのない食材だったりするので、ヨメ実家で食事をよばれるときはちょっとした幸せである。
ところがそのお陰でこんな私でも最近舌が肥えてしまい、安モンの肉は固くて食べられへん・・・・となってしまったりすることがある。今まではそれが最高級品だと教えられて育ったのにである。
そうなると、安モンの肉はいらん→ウマい肉を求める→食べる→ウマい→さらに舌が肥える→さらにウマい肉を求める→さらに舌が肥え産地や味付けまでにも文句を言い出すようになる→食べれる肉が限定されてくる→ついにはウマいと思える肉がなくなる・・・・。という状況になりはしないだろうか。
幸せを求めて肉を食べていただけなのに、最終的にはなんと悲しい不幸な結果になってしまうのである。ヨメのオトンはどっぷりこの傾向にある。回転寿司なんて絶対に行かないし、しょうもない焼肉屋には絶対行かない。そんなもん食べるぐらいならオレがエエ肉仕入れてきたる、と言うたりする。
これは食のことだけではなくて、恋愛でも仕事でも家庭でも同じことが言えるのではないだろうか。もちろん自転車も。
こりゃエエやろなあウケケ・・・と奮発して購入したサドルで痔になったり、飛び道具だぜ~と意気込んで買った炭ホイールでタイムが落ちたりすることはよくある。私もそうだった。結局前のほうが良かったなあと誰もが経験したことがあると思う。幸せを求めて交換したのに不幸になってしまったのである。
まあヒトによっては「そういう失敗もあるさ」とサワヤカに受け入れることが出来る人もいると思うが、私の場合は安月給のサラリーマンなので、数万円する部品が失敗だったとしたら夜も眠れないぐらいに後悔する。まさに不幸のどん底である。そんなとき、自転車に乗り始めた頃の自分を思い返して、“何も知らなかったことは幸せやったのかなあ”と思ったりする。
どん欲に幸せを求める行為がアカンというわけではないが、あんまり突き詰めていっても結局は不幸を招くのではないかと思う。「知らぬが仏」という言葉もあるように、知りすぎることも時には考えものなのかもしれない。
清滝のタイムを短縮するためにはコルナゴが絶対必要だと思い込んでいたが、もし万が一コルナゴを購入して清滝アタックしたら、ゴール地点で頭髪が一気に白髪になってしまうほど落ち込んでしまうだろう。
今ある幸せに満足しよう。それ以上を求めないようにしよう。それは決して幸せに対して後ろ向きになっているということではない。等身大の幸せを満喫できることこそが、幸せというものなんだ。
・・・・・ええこと言うた。もう1杯呑も。
“幸せを追求すると不幸になるのか” への4件のフィードバック
コメントは停止中です。
人間、座って半畳寝て一畳。
ですね。
●AUenoあにき
あにきもエエこと言いますね。
あんまり多くを望まないように質素に生きていきたいです。
自分は、「足を知る」って聞きました。
しかし、これは、ものに対してで、自分の足とエンジンは全然足りてないのですが・・・
●みーこあにき
「足を知る」か・・・・。勉強なりますねえ。
自転車での足は知ってるつもりなんですが、時折ムチャなアタックして自滅することがあります(笑)