骨髄移植その4

 6月12日夕方、久しぶりにコーディネーターの方から電話があった。DNAタイピング検査から約2ヶ月、いよいよここで移植となるか“無し”になるかが決まる。
 
 結果は「患者様都合により中止となりました」とのこと。残念である。全身麻酔や1週間ほどの仕事の休み、チームTTに影響するなどなど、いろんなネガティブな要素はたくさんあったのに、残念という感覚が湧いてきたのは自分でも意外であった。それらのリスクが無くなってスッキリするはずなのにである。
 
 今回骨髄を希望していた患者さんがどうなったかは知らされない。他に条件の良い適合者が現れたのか、別の治療方針へ変更になったのか、それとも移植を待たずに・・・・。考えればキリがない。
 
 この一報を聞いて、「残念だ」という気持ちの次に、「まあそらそうだわな」という気持ちが湧いてきた。
 
 私が誰か他人の命を救うなんて、そんな大それた事ができる自分にちょっと鼻高々になっていたことに気が付いた。いや、そりゃ現代の医学では可能だし、現に今も行われている。完全なボランティアであることもよく理解している。だけど、「おれは他人の命を救ったるんやでー」というやらしい気持ちが正直あったことは否定出来ない。
 
 もし実際に移植にまで至ったとしたら、私はきっとブログやFBで声高々に画像や近況をアップしただろう。ドヤ顔で院内の様子を撮り、語彙の足らない恥ずかしい長文を書いていたかもしれない。
 
 「人の命を救う」ということは、臓器の移植や、被災地での救助活動や、献血など、ある特定の行動をすることによってもたらされるものだと思うけど、そういう目に見えることだけではない気がする。もっと広い意味で、たとえば私がここに存在し、普通に日常を送るだけで持続する命だってある。家族がその一例だ。
 
 「人の命を救う」とは難しいことだ。「おりゃ~今から救うぜ~」ではあかん。「救わさせて頂きます」もちょっと違う。不治の病になった人たちがよく言う言葉に、
 
 「病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのだ」
 
 というものがあるそうだ。もうすぐやってくる死は、病気のせいではなく、生まれた時からこの時と決まっていた運命によるものだという、とても前向きで健気な考え方である。だからもしかしたら、自分に適合する骨髄を求める患者さんのほとんどは「見つからなくて元々」というふうに考えているのかもしれない。適合者が見つかるのも見つからないのも運命で、自分の寿命をラッキーとかアンラッキーなどで伸ばしたり縮めたりすることはそもそもできないのだと。
 
 患者さんがそのように考えているのであれば、我々ドナーが「なんとしてでも骨髄を提供したい!」と言うのはなんと押し付けがましいことかと思う。今回は結局骨髄提供には至らなかったが、とてもたくさんのことを考えさせられた。また患者さんからお呼びがかかったら喜んで提供したいと思う。