赤瀬川原平の本の中に、「読まれ率」の高い文章がどうのこうのというのがあった。世の中には本や雑誌が蔓延しているが、読まれ率100%のものはそうそう無いとのことである。
確かにそうだ。新聞や自転車雑誌なんかを読んでいても、最初から最後まで一文字も残さず読みきった例など無い。写真や広告に目を奪われて、文章を読まずしてもおおよその内容は想像がついてしまう。
私もこのような駄文を世界中の皆様に無責任に配信している者として、この「読まれ率」には大いに興味があったのでそのことについて書いてみる。
おかげさまでこのブログも毎日200ヒットものアクセスがあり、自己満足日記にも関わらずそれだけの皆様に読んで頂いているということは非常に光栄であるとともにコッパずかしい気持ちで一杯である。もっとたくさんのアクセス数を誇るブログも多数あるが、私の実力ではこの辺が精一杯かな、なんて思ったりもする。
まあ書いてる本人がプロではないのでアクセス数が全てではないけれど、やはりアクセス数が上がると単純に嬉しいもんである。それが日に日に上昇したりしちゃった日にゃあ、軽い使命感なんぞが湧き出て来て、毎日毎日飽きもせず更新を続けるのだ。
ところが最近思う。「皆さん上から下まで全部読んでくれてるのかな?」って。
イヤ別に強制ではないから、自分の身の回りに最近起こった事とか、考えている事とかを押し付けるつもりは全く無い。私と実際に会う時はあらかじめ私のブログの過去1週間分ぐらいを読み返し、「オレ予習」しといて欲しいというわけでもない。
なんでそんなことを思うかと言うと、渾身の長文を書いた時にはそれほどでもないのに、何気にチョロっと書いた2〜3行の記事の方がアクセスが多かったりするからだ。
このブログも皆様のお力添えを頂きつつ、開設してからもうすぐ2年になる。毎月毎月ゆっくりではあるけれども順調にアクセス数を増やし続け今に至るわけであるが、ほとんど毎日更新していると「アクセスを増やす記事」の書き方がわかってくる。
1・・・愚痴は書かない。
2・・・長文を毎日続けない。
3・・・レースやイベントがあった日にはそのレポートを書く。
4・・・写真は多めに。
5・・・フォントの大きさや色を変えて「笑うポイント」をわかりやすくする。
もっと細かいポイントはたくさんあるが、大体これぐらいだろうか。適度な下ネタは時々なら良し。親バカも時々なら良し。真面目な文章も時々なら良し。とにかく「時々」ってのがカギを握っている。もっと言うと記事の更新さえ時々ぐらいがちょうど良いのではないだろうか。多分、長文を毎日書くとそれこそ書いてる本人の自己満足になってしまい、読者がついて来れないのではないだろうか。
私も一日に数十件の他ブログを徘徊するが、正直言って「読み率100%」かと言うとそうではない。一応全部読むけどキッチリ「100%」ではない。完璧読み率100%のブログは何を隠そう自分のブログだけである。イヤ、何度も読み返してちょこちょこと訂正を入れたりしているので200%以上である。
最近何かとバタバタとしていると思われるので仕方が無いのだが、某SN嬢(旧姓SN嬢)のブログは長い間更新が滞っている。しかし最後の記事、『入籍成功!』というこの一行は間違い無く「読まれ率100%」であり、これほど完璧に彼女の心境と人柄を表している文章は無い。「入籍しました!」ではない。「成功!」である。素晴らしい。
もちろん短文だと一目で読めるので読まれ率もそれだけ高くなるのは当然だが、それでも渾身の長文が空振りで、たった一行の記事がホームランだったりするのである。先程も書いたが、私はプロではないので読んでくれる人数が問題では無い。やはり「読みやすい文章」を書き、「読まれ率」を100%に近づけることが重要なのではないかと思う。
そう考えると、俳句や短歌など、その短い文章の中に、作者の気持ちや周りの景色や時代背景なんかが全て織り込まれ、さらに時を越えて現代に語り継がれる素晴らしさが、ブロガーになった今、身に染みて感じるのである。ちゃんと勉強しといたらよかった。
いっそのことこのブログも全て「五・七・五・七・七」にしてやろうかと妄想するが、それほどの技量が私には備わっていないので、こうやって読まれ率の低い長文を、恥と共にかき続けるのである。